ジョニー・キャッシュは違っていた。1954年に軍隊の兵役を終えたばかりの時、メンフィスで電気製品を売り、マーシャル・グラントMarshall Grantとルーサー・パーキンスLuther Perkins(カールとは無関係)の二人とお店でゴスペルの曲を歌ってくつろいでいた。
自分たちはとても上手と考えていたから、サンSunにオーディションに行った。
サムは良い印象を持ったが、ゴスペルではさほど売れないことが分かっていたので、ちゃんとしたカントリーの曲を書いてくれと言った。
そしてついに、メンフィスがナッシュビルという巨大な集団に対する脅威となるかも知れない。
キャッシュには、そのための素質があった。カール・パーキンスと同じように赤貧の中で育ち、アーカンソーでは問題に巻き込まれる傾向があり、2年間の軍隊生活と波乱に満ちた結婚生活を送ったので、歌の素材があった。しかし、彼はカントリーの主流にいたわけでもなかった。フィドルも、スティール・ギターもドラムもなかった。
ジョニー・キャッシュ&テネシー・トゥーJohnny Cash and The Tennessee Twoは、キャッシュCash、ベースのグラントGrant、ギターのパーキンスPerkins、それだけだった。
それでも、有名なサン・レコードのスラップバック・エコーに少しは支えられて、彼らの「フォルサム・プリズン・ブルースFolsom Prison Blues」は最初からヒットした。
この曲の中でキャッシュは、男が死ぬのを見るためだけに、リノで平然と殺したことを認めるのだが、これもカントリーの普通の内容ではなかった。ともかくも、この曲は1955年のカントリー・レコードのトップテンにチャート・インした。