突然キャリアが軌道に乗ったのはエルビスだけではなかった。1955年12月初め、マーティー・ロビンスMarty Robbinsのマネージャー、エディ・クランドールEddie Crandallは、バディ&ボブ・モンゴメリーBuddy Holly & Bob Montgomeryの演奏を見て、それに加え、コットン・クラブCotton Clubでロビンスのバンドと、ホリー&モンゴメリーHolley and Montgomeryのバンドとの仕事を終えた後、たぶん徹夜のジャム・セッションに立ち会ったのだろう。
クランドールは、その若者たちが番組を持っているWDAV放送局のオーナー、デイブ・ストーンDave Stone宛てに、次の内容の手紙を書いた。「バディ・ホリーBuddy Hollyとレコーディング契約できる自信が十分ある。大手ではないかもしれないが、ブレークしようとしている者にとっては、小さな会社でも役に立つだろう。」それからクランドールは、少年たちのデモ・テープを4曲作るようストーンに依頼する電報を送ったが、そこには、「バディのスタイルを決して変更しないように」という注意書きが有った。それから彼は活動を続け、グランド・オール・オプリthe Grand Ole Opryと長いつながりのあるジム・デニーJim Dennyに、バディの代理で問い合わせてもらったところ、コロンビアColumbiaに断られた後、デッカDeccaのポール・コーヘンPaul Cohenが興味を抱いてくれた。
コーヘンはバディから自分に電話するように依頼し、その会話の中でボブ・モンゴメリーBob Montgomeryがバディと一緒に行くことになっているかをデニーに尋ねた。「ボブはレコードで歌の出番はない。欲しい歌手は一人であって、二人ではない。」とデニーは言った。バディがそれをどう感じるかということについて、デニーがボブと話し合った時、「チャンスなんだから、やりなよ!」とボブが答えたことを、バディの母親は覚えている。モンゴメリーは、ナッシュビルでソングライターとして成功し、2014年に亡くなった。