第7章 1956年 絶好調へ
トム・パーカーTom Parker大佐を止めることはできない。
1955年の夏から初秋にかけて南部全域のパッケージ・ツアーを計画し、エルビスがツアーに出ているときは、プレスリー家に電話し、彼の家族、ほとんどはエルビスの母親グラディスに、順調だと安心させた。グラディスは大佐をあまり信頼していなかった。
大佐は口先が上手かったが、グラディスは正体を見破っていた。エルビスはまだ20歳と若かったので、ボブ・ニールBob Nealに対する「特別顧問」として大佐が指名された契約書に署名するよう、大佐がプレスリー家に迫った時には時間がかかった。
大佐は内心では、エルビスとニールの契約が切れる1956年3月をひたすら待って、自分が後を継ぐつもりだと親しい人に話していた。一方、ニールとサム・フィリップスSam Phillipsは、エルビスとサン・レコードSun recordsの契約が売りに出されているという噂を流していた。
サムはどうしてもお金が必要だった。エルビスがレコードで成功したので、サムは一流になった。サン・レコードはつけでレコードをプレスするというリスクを取り、それを流通業者に出荷した。流通業者は売れたレコードの支払いを90日間猶予でき、売れなかったレコードの売掛金は100%取り消せる。あるタイトルのレコードが突然ヒットするということは、レコード会社がプレス工場に借金をし、流通業者が期日までに支払うことを期待ことになる。そして、サンは、もはやアーティストが一人だけのレーベルではない。過去においても一人だけだったことはなく、サムはカール・パーキンスを育て、新人でアーカンサス出身の若者、ジョニー・キャッシュはカントリー分野で有望だとみていた。
そして、事情が変化したのはプレス工場だけではなくなっていた。サムの兄、ジャドJudは、1年前にジム・ブレットの株を買ってサン・レコード社に投資し、配当金を望んでいた。
デッカがビル・ヘイリーで成功したことを考えると、大手レーベルはロックンロールのアーティストを獲得することは理にかなっているのかもしれない。
コロンビア・レコードColumbia recordsのミッチ・ミラーMitch Millerは、ボブ・ニールBob Nealに電話して契約金を尋ねたら、サム・フィリップスSam Phillipsはニールに18,000ドル要求しろと言った。
それに対してミラーは、「おー、忘れてくれ、そんなに価値のある奴はいない。」と言った。デッカDecca、キャピトルCapitol、マーキュリーMercury、チェスChess、アトランティックAtlantic(2万5千ドルという途方もない額を提示したが、これは「私の机を含めて、全財産だ」と、アーメット・アーティガンはエルビスの伝記作家ジェリー・ホプキンスJerry Hopkinsに語った)の各社がオファーした。どれも満足のいくものではなかった。