巡業は計画通り実施され、エルビスの最大の市場である西テキサス全域を回り、5月は南に下ってフロリダに行ったとき、興行主で、教師、ジャーナリスト、作曲家もバランスよくこなしていたメイ・ボーレン・アクストンMae Boren Axtonと会った。
アクストンはパーカーと面談し、ショーのプロモーションを一緒に行い、パーカーがエルビスに関心を深めていることに気づいた。「パーカーの目にはドルマーク」が付いていたと、後にアクストンは言った。そこにジミー・ロジャース・スノウJimmie Rodgers Snowの手伝いに来ていたRCAのプロモーション担当はエルビスに感動し、そしてパーカーが関心を持っていることを知り、レコード店に行ってエルビスの全レコード(その時点ではシングル4枚)を購入した。
それをRCAのカントリー部門責任者、スティーブ・ショールズSteve Sholesに渡すためにナッシュビルに持ち帰った。
ショールズも感動した。しかし、他に動きはなく、ボブ・ニールとエルビスとの契約は再交渉の結果、1956年までとなった。ところが、カントリー音楽は少し変化していた。23歳のファロン・ヤングFaron Youngは、1953年に、初ヒットである「ゴーイング・ステディGoing Steady」をレコーディングした時、もっと若いファンを狙っていた。
そして、彼の1955年のヒット曲、「リブ・ファースト・ラブ・ハード・ダイ・ヤングLive Fast, Love Hard, Die Young(And Leave a Beautiful Memory)」で少年非行領域ギリギリのところまで踏み込み、エルビスのサン・レコードの2曲さえも、その年チャート・インした。
「ベイビー・レッツ・プレイ・ハウスBaby Let’s Play House(R&Bアーティストのアーサー・ガンターArthur Gunterのカバー)」と、
メンフィスのファンが書いた「アイム・レフト・ユアー・ライト・シーズ・ゴーンI’m Left, You’re Right, She’s Gone」、