エルビスはというと、ツアーに出ていない時はルイジアナ・ヘイライドLouisiana Hayrideで演奏していた。
エルビスが出演していたツアーの多くは、複数演奏者によるショーで、大見出しにはよくハンク・スノウHank Snowが載っていた。
スノウは小柄なカナダ人で、40年代からヒットを量産していて、マネージャーは大柄で無作法、あるいはがさつとも言われるトム・パーカー大佐Colonel Tom Parkerだった。
パーカーが言うには、自分はフロリダ育ちの孤児で、実はタンパで野犬捕獲者だった後、移動カーニバルの仕事に就いた。カーニバルは前途有望なカントリー・スターの重要なお披露目の場であり、ある背の高いハンサムな声の良い若者がパーカーの目に止まった。エディ・アーノルドEddy Arnoldはスターダムへの階段を上りつつあり、パーカーはマネージャー契約を結んだので、アーノルドがRCAレコードRCA Recordsと契約した際には、パーカーにとって大手レコード会社とその仕事への道が開けることとなった。
パーカーと交渉しても所詮勝ち目がないということは誰もが認めることだが、もしエディ・アーノルドが欲しければ大佐(この名誉称号は、ルイジアナ州知事でかつてのカントリー・スターであるジミー・デイビスJimmie Davisからもらった)と交渉することになる。
そして、小さな点で譲歩をすることがたまにあるが、大きなところは全部勝ち取る。カーニバルはパーカーの体に染み付いていて、アーノルドが舞台で歌っている間、大佐は口に葉巻をくわえたまま、エディ・アーノルドの歌集、おみやげのプログラム、光沢のある写真(そこにはスターがショーの後サインする)を売り歩いた。アーノルドのギャラを変えようとしても無駄だ。パーカーは頑として譲らないのだ。実際に一歩も譲ろうとしないために、パーカーはスターを失った。確たることは誰にも分からないが、1953年、アーノルドはパーカーを解雇したのだ。パーカーはアーノルドの出演予定を取り続けたが、それまでだった。パーカーは、数人のカントリー・アーティストをはじめとして、他の様々なことをし続けたが、1954年までに、RCAアーティストでもあったハンク・スノウHank Snowを一手に取り仕切っていた。スノウのショーには彼の息子のジミー・ロジャース・スノウJimmie Rodgers Snowも出演していた。
今やエルビスはルイジアナ・ヘイライドLouisiana Hayrideと契約しており、エディ・アーノルドやハンク・スノウと共演していているので、パーカーはますますエルビスに興味を持つようになった。