そこで起きたことの言い分は様々だが、全くかけ離れているわけではない。ジョニー・エースが銃好きでいつも持ち歩いているというのは、誰もがする話だ。
銃の携帯は、クラブ巡業で働くなら黒人演奏者だけでなく、たくさんの演奏者がある程度しなければならないことだ。夜の終わりにクラブ・オーナーやコンサートの興行主に正当な報酬を出させるには、脅すことが唯一の方法だということが度々あった。楽屋での強盗は珍しいことではなかった。それでもジョニーは、ひどい銃気違いで、巡業中に道路標識を撃ったり、不適当なときに自分の銃を見せびらかしたりした。あるクリスマス・イブに、嫌がる女性ファンの前でエースが銃を抜き、これから何をしようとしているかを自分で分かっていると彼女に伝え、自分の口の中に銃を入れ、引き金を引くのだが、薬室に弾丸があったことを忘れていたのだ。他の時には、ロシアン・ルーレットをやるのだが、なぜそれをしたがるのかが全く説明されない。銃の口径も論争の的で、口径0.22という者と0.32という者がいる。何が起こったにせよ、一つだけはっきりしていることは、一瞬にしてジョニー・エースは死んだということだ。この事件によって、「プレッジング・マイ・ラブ」はチャートのトップに押し上げられ、10代の黒人少女たちの中で奇妙な死の狂信的教団が作られ、極端な場合には彼を祀る聖堂をベッドルームに建てた者もいる。
誰もこんなものは見たことがない。ドン・ロビーは、ショックから立ち直ると、何をすべきかを知ったが、それはエースが録音したものをすべて、10インチLPアルバムに入れ、R&Bの初LPアルバムの一つである、「ジョニー・エース・メモリアル・アルバムJohnny Ace Memorial Album」をリリースしたことだ。
サム・フィリップスにとってこの年はもう少し良くて、「グッド・ロッキン・トゥナイトGood Rockin’ Tonight」は売れ行きが良く、1955年1月1日、エルビスは、クラブ業界とナッシュビルに太いパイプのある地元のカントリー・ミュージック歌手、ボブ・ニールBob Nealとマネージメント契約を結んだ。
ニールが加わったことによって、スコッティ―・ムーアScotty Mooreはバンドの出演交渉を止め、もっとも得意なこと、つまりギター演奏に戻った。
そしてエルビスの名声はテネシーの外にも広がり、テキサスに基盤があることがはっきりして、エルビス、スコッティ―、ビルは、ヒューストンの盛大なニュー・イヤーズ・イブ・ショーで演奏した。もっと大きなテキサス・ツアーが近々催されるので、年明け早々に西テキサス辺境のルーボックへ行ったが、この町には大学と伝説のクラブ、コットン・クラブthe Cotton Clubがあった。
この名前はハーレムの場所にちなんだのではなく、この地域の主作物の名前である。このツアーは、ウェスタンのスウィング・フィドラーであるトミー・ハンコックTommy Hancockがマネージし、黒人や白人(もちろん別々の夜)のエンターテインメントを売り物にして、デューク・エリントンDuke Ellingtonやアーネスト・タブErnest Tubbも出演していた。