第6章 1955年 ロックンロール誕生・・・たぶん
ピーコック・レコードの創設者、ドン・ロビーDon Robeyにとって、1954年は楽しいクリスマスではなかった。クリスマス・イブまでは、彼にとって良い年だった。

ロビーの所属していたバッファロー・ブッキング・エージェンシーBuffalo Booking Agencyは、やり手のエブリン・ジョンソンEvelyn Johnsonが運営し、この地域における主要な黒人巡業アーティストの出演契約を一手にさばいていて、とりわけBBキング B.B.Kingの出演契約は独占的に扱っていた。


ロビーのブロンズ・ピーコック・クラブBronze Peacock clubは、ヒューストンを通過する一流の巡業アーティストにとって、唯一考えられる演奏場所でもあり、巡業中もっともしゃれたクラブの一つなので、アーティストが一週間の出演契約を取り合った理由はそこにある。ほとんどの場合、ロビーは所属アーティストを厚遇していた。ロビーのレコード・レーベルは全国的にまあまあの業績だったが、地元ではクレアランス・ゲートマウス・ブラウンClarence “Gatemouth” Brownがローカルヒットを連発し、ソングバードSongbirdレーベルのゴスペル・レコードは着実に売れ、ロビーがジョニー・エースJohnny Aceを獲得するために買収したデュークDukeレーベルは素晴らしい投資だったことが証明された。
![Amazon.co.jp: Blues of [DVD] : Brown, Clarence Gatemouth, Brown, Clarence Gatemouth: DVD](https://m.media-amazon.com/images/I/51Q0VSNMPAL._UF894,1000_QL80_.jpg)

ロビーのところに来てから、エースのレコードは一つ残らずR&Bトップテンに入ったのだった。次の曲、「プレッジング・マイ・ラブPledging My Love」は、ものすごい勢いで上昇しそうに思えたので、ロビーは、クリスマス明けまでリリースを控えていた。

エースは、ヒューストン市公会堂の豪華なクリスマス・イブ・ショーでその曲を初演することになっていて、エースと彼のバンドと楽屋が一緒だったウィリー・メイ・ビッグ・ママ・ソーントンWillie Mae “Big Mama” Thornton等、ロビーが管理する大勢の演奏者を差し置いて主役を務めた。
![Thornton, Willie Mae [Big Mama]](https://1.bp.blogspot.com/-iiR1O1vZkOQ/U9DEouY27_I/AAAAAAAAHdk/VktRAjREQI8/s1600/Big%252BMama%252BThornton%252B-%252BIn%252BEurope%252Bfront%252Bcover.jpg)