この曲の中で、アレックスは何度か情熱的に歌っている。この曲は、明らかに、南部を巡業しRCAでレコーディングしていた、ある若いブルース・シンガーから注目されていた。それは、リチャード・ペニマンRichard Penniman、自称リトル・リチャードLittle Richardで、エネルギッシュなステージ・ショーで知られていたが、彼のレコードは平凡なブルースだった。
RCAレコードが彼との契約を打ち切った後、ドン・ロビーDon Robeyは、彼にはお客を引き付ける力があると分かっていて、ジョニー・オーティスJohnny Otisのバンドにバック・コーラスを依頼して、1953年、リチャードはデューク・ピーコック・レコードDuke-Peacock recordsでのセッションでレコーディングした。ロビーはそのレコードをリリースすることさえしなかった。
しかし、ぺニマンはまだ終わらなかった。
オーティスも終わっていない。
サンフランシスコのフィルモア・ホールFillmore Auditorium公演で、ジェイムセッタ・ホーキンスJamesetta Hawkinsという名前の厚かましくて色白の15歳の女の子に会い、すぐにその場でオーディションをせがまれた。
オーティスは、その子のオーディションをやり、それから、バンドがロサンゼルスに戻る時に彼女を連れて行く許可を、彼女の両親から取り付けた。彼らはその子にエタ・ジェームズEtta Jamesという名前を与えた。
そして、ハンク・バラードのアニーAnnieのレコードへのアンサー・レコード、「ロール・ウィズ・ミー・ヘンリーRoll with Me, Henry」を作り、モダン・レコードModern recordsに持ち込んだが、タイトルを「ザ・ウォールフラワーThe Wallflower」に変えるように求められた。
この曲は、R&Bチャートを急上昇し、突然エタ・ジェイムズはジョニー・オーティス・レビューJohnny Otis Revueのツアー・メンバーになった。