誰もが期待した以上に売れ行き好調だった中で、カールは運よく一枚手に入れた。

サムはクリーブランドの販売業者から電話を受けた。

それはビル・ランドルBill Randleというベテランのディスク・ジョッキーで、最初からロックンロールを理解し、賢明に自分の番組に何曲か取り入れていた数少ない者の一人だったが、このレコードに飛びつき、25,000枚をすぐに欲しいと言った。

ボブ・ニールBob Nealはパーキンス・ブラザースThe Perkins Brothersの出演予約をし、ジョニー・キャッシュJohnny Cashと一緒にツアーに出した。

ダラスのオプリOpryのようなビッグ・ディー・ジャンボリーBig D Jamboreeにカールの予約を取ってそこで大成功を収め、すぐにバンドはテキサスとニューメキシコ州で演奏することになった。
![Carl Perkins – Live On The Big "D" Jamboree – Vinyl (7", 45 RPM, EP), 2000 [r9998953] | Discogs](https://i.discogs.com/FDc8JLQvtqvDjP-OIZL_fcEx_7sT3ZxFgx_YdEBRJ54/rs:fit/g:sm/q:40/h:300/w:300/czM6Ly9kaXNjb2dz/LWRhdGFiYXNlLWlt/YWdlcy9SLTk5OTg5/NTMtMTQ4OTkxNjYx/Mi04MDMyLmpwZWc.jpeg)
この成功は、新しくて通常とは変わったものが好きというテキサスの長い歴史に助けられたが、これこそ当時カールがロカビリーと称していた自分の演奏スタイルだった。また、カールとキャッシュはどこへ行ってもサムのアドバイス通り、ラジオ局に出向きレコードをかけてくれたお礼を言って販売促進した。


キャッシュのレコード、「ソー・ドッゴーン・ロンサムSo Doggone Lonesome」、B面「フォルサム・プリゾン・ブルースFolsom Prison Blues」も良く売れ、2月に入るころには、ますます出演依頼をすることができた。


そして2月の終わりまでに、大変なことが起きていた。「ブルー・スエード・シューズBlue Suede Shoes」がポップ・チャートに入り、エルビスにとって初のRCAシングル、メイ・ボーレン・アクストンMae Boren Axtonの「ハートブレーク・ホテルHeartbreak Hotel」もランクインしたのだ。





エルビスはニューヨークRCAスタディオでレコーディングに熱中していて、できるだけ早くアルバムを出す準備をしていた。完了した曲のうちの一つが「ブルー・スエード・シューズBlue Suede Shoes」だった。

![Elvis Presley – Blue Suede Shoes – Vinyl (Blue Label, 7", 45 RPM + 2 more), 1956 [r6821679] | Discogs](https://i.discogs.com/MhnvsdJIdznGKbt47EPDiSgfXX7ZEoOu9w63Nynk1bA/rs:fit/g:sm/q:90/h:600/w:600/czM6Ly9kaXNjb2dz/LWRhdGFiYXNlLWlt/YWdlcy9SLTY4MjE2/NzktMTU4MTkxMzI4/Mi04OTE4LmpwZWc.jpeg)
エルビスもRCAもそれをシングルとして出す予定はなく、アルバムだけだった。エルビスは、ドーシー・ブラザース・ステージ・ショーThe Dorsey Brothers Stage Showで2回目のテレビ出演をしたときにこの曲を演奏したが、2月に最初の出演をした際には、既にレコーディング済みの別の曲、「トゥッティ・フルッティTutti Frutti」を演奏した。
