レイ・チャールズがニューヨークにいるときは、アトランティックAtlanticがレイと一緒にたくさんレコーディングしていた。
レイはツアーで評判を高めていたので、特に南部中心にツアーをしていた。1953年10月のある日、レイはニューオーリンズにいて、セッションをやり、アーティストのギター・スリムGuitar Slimのためにアレンジをする仕事で雇われていた。
ミシシッピ州ジャクソン出身のイタリア系アメリカ人起業家ジョニー・ビンセントJohnny Vincentは、スペシャルティ・レコードSpecialty recordsのアート・ループArt Rupeに雇われ、タレント・スカウト、レコーディング・セッションの監督、レコード会社のビジネス全般を任されていた。
スペシャルティ・レコードは、南の地ロサンゼルスから「ローディー・ミス・クローディLawdy Miss Clawdy」級の大ヒットをもう一曲出したいと思っていた。
ギター・スリム(本名:エディ・ジョーンズEddie Jones)には、それを成し遂げるだけの素質があった。スリムは、ニューオーリンズの悪名高きデュー・ドロップ・インDew Drop Innでレギュラーとして、きらびやかな衣装を着たギター演奏の名手だった。
背中に手をまわして演奏したり、自分の歯で弾いたり、アンプに差し込んだ長いコードを引きずって演奏しながらクラブの外に歩いて行くといった、T-ボーン・ウォーカー T-Bone Walkerが始めた悪ふざけをいっぱいした。
また、スリムは酒癖が悪く、セッションをやり終えるのが大変だった。ビンセントは、自分がスペシャルティに加わる前に保有していたレコード・レーベルの一つにおいて、スリムにレコーディングさせたことがあったので、そのことを知っていた。レイ・チャールズは、その場で「ザ・シングズ・アイ・ユーズトゥ・トゥ・ドゥ The Things I Used to Do」という歌のアレンジを一緒にまとめ、バンドに練習させて、ようやく使えるテイクになった。
詩の句切れにスリムが刺々しいギター演奏を入れ、最後の2音をバンドが演奏する直前、合奏の後ろの方でレイが歓声を上げるのが聞こえる。アート・ループがジョニー・ビンセントに対し、ひどくずさんなレコードを送ったことにガミガミ言ったり、もしヒットしなかったらクビにすると脅したとしても、それは素晴らしい演奏だった。ビンセントにとって幸いだったのは、これが1954年の初め、R&Bチャートのトップになったことだった。結局ニューオーリンズの才能あふれる全員が契約していたわけではなかったのかもしれない。レイ・チャールズはどうかというと、そのレコードには自分のクレジットが付かなかったのだから功績にはならなかったが、アトランティックは春に新しく録音したうちの一枚を大した宣伝もせずに販売し、ある程度成功した。それは新機軸であり、チャールズの新しい歌声をよく表したのだが、「イットゥ・シュドゥ・ハブ・ビーン・ミーIt Should Have Been Me」と叫ぶときの声は、ゴスペル・シンガーたちの影響を受けていた。
アトランティックは、その曲をR&Bのトップテンに送り込み、それに続く曲をそのテープの中から探し回った。