ボーカル・グループは東海岸で大流行していたので、ドミノーズThe Dominoesはハーレムのアポロ・シアターApollo TheaterやバードランドBirdlandでよく演奏した。
アトランティックAtlanticのアーメット・アーティガンAhmet Ertegunは1953年夏のある晩、バードランドで見ているとマクファクターMcPhatterのいないのに気が付いた。
ステージの合間に楽屋に行って、何気なくビリー・ウォードBilly Wardにわけを尋ねた。
ウォードは仕えにくい上司で、雇った者への要求は多く、すぐにかっとなることで知られていた。アーティガンへの返事は簡潔で、「バカはくびにした」だった。アーティガンはすぐにクラブの外の舗道に出てタクシーを止め、マクファターのハーレムのアパートに連れて行くよう運転手に言い、そしてマクファクターをディナーに誘って、アトランティックAtlanticと契約すべきだと説得した。マクファターには、トラシャー・ワンダースThe Trasher Wondersというゴスペル・グル-プに友人が数人いて、マクファターと一緒に宗教色のない歌を歌いたがっていたので、アトランティックでオーディションをした後に契約し、名前をドリフターズThe Driftersとした。アトランティックでの最初の曲は「マネー・ハネーMoney Honey」で、年間でもっともたくさん売れたR&Bの曲になった。
ビリー・ウォードBilly Wardはあまり怒っておらず(ウォードの言い方では、アトランティックが問題を引き取ってくれただけのことだ)、ジャッキー・ウィルソンJackie Wilsonという別のリード・シンガーを見つけたが、ウィルソンは元ボクサーであり、デトロイトのフレーム・ショー・バーthe Flame Show Barで、ゴスペルとポップの曲を歌っていた。