R&B界における1953年最初のビッグ・ヒットは、大都市の洗練されたクルーナー達に一矢報いた。ウィリー・メイ・ビッグ・ママ・ソーントンWillie Mae “Big Mama” Thorntonは親のニックネームをそのまま受け継ぎ、「ハウンド・ドッグHound Dog」の間中、唸ってキャンキャン吠えて、野良犬も同然の役立たずを罵り、バックで演奏している誰か(ラベルには「カンサス・シティ・ビルCansas City Bill」とあるが、実際はジョニー・オーティスJohnny Otisだった)に時間を与えてギター・ソロを演奏させた。
これをまた、単に黒人の堕落した音楽に過ぎないとはねつけたがる人たちは、それを書いた人が、それはロサンゼルスのフェアファックス・ハイスクールFairfax Highの元生徒二人で、ユダヤ系知識人の息子たちだったのを知って驚くことになる。
ジェリー・リーバーJerry Leiberとマイク・ストーラ―Mike Stollerは1950年、ロサンゼルスに両親と一緒に引っ越してきて、ストーラーはハイ・スクールを中退して地元のダンス・バンドと一緒にミュージシャンとして働いた。
そのメンバーの一人のドラマーがリーバーに、ストーラーを「良い曲になるかも知れない歌詞を書くやつだ」として紹介したが、リーバーはまだ在学中だった。ストーラーは、「リーバーは感傷的すぎるところと退屈なところを内面に持っている」と考え懐疑的だったが、リーバーは放課後にレコード店で自ら売っていたレコードから影響を受けるようになったことが分かった。そのレコードはティーンエイジャーなら、黒人と白人の分け隔てなく買ったR&Bのレコードだった。「僕たちはブルースに興味を持った唯一の白色人種だというわけではなかったが、一般的に言って、10代の白人の子が黒人に人気のあるポピュラー音楽にかかわり、知識を豊富にし興味を持つことはまれだった」ことをストーラーは後に回想している。二人は曲を書き始め、モダン・レコードModern Recordsの営業部長レスター・シルLester Silとコネができ、
シルが二人の曲のうち一つを、大きなブルース・ショーの地元プロモーターであるジーン・ノーマンGene Normanのところに持っていくと、
ノーマンを通じて1950年のジーン・ノーマン・ブルース・ジャンボリーGene Norman Blues Jamboreeやシュライン・オーディトリアムthe Shrine Auditoriumの聴衆の中に立たせてもらい、ジミー・ウィザースプーンJimmy Witherspoonが二人の作った曲を歌うのを聞けた。
間もなくして、シルは二人をニューヨークに連れて行き、マーキュリー・レコードMercury recordsのボビー・シャドBobby Shadやキング・レコードKing recordsのラルフ・バスRalph Bassなど、演奏者にレコーディングのための曲を与えるA&R担当に会わせた。
バスは間もなくロサンゼルスに異動になり、キングの新子会社のフェデラル・レコードFederal recordsを設立し、二人にレギュラーの仕事を与えた。ジョニー・オーティスは、すぐ近くに優れたソングライターが二人いるとの話を耳にし、最近自分で見い出したアーティストと一緒に仕事をするために二人を自宅に招いた。これが二人とビッグ・ママ・ソーントンBig Mama Thorntonとの出会いだった。「ハウンド・ドッグHound Dog」は二人にとって本当に最初の大ヒットで、ドン・ロビーDon Robeyのピーコック・レーベルPeacock labelから発売したのだが、ヒットしたとき二人はまだ20歳だったので、小切手を預金するには母親に法定後見人になってもらう必要があった。小切手は不渡りになった。