スペシャルティ・レコードSpecialty recordsは素晴らしいことを成し遂げることになる二人の地元アーティストを見い出した。パーシー・メイフィールドPercy Mayfieldは「ブルースの詩人The Poet of the Blues」ともてはやされたシンガー・ソングライターだったが、その作品ははるかにポップ色が強かった。
単なる誇大宣伝というわけでもなく、「プリーズ・センド・ミー・サムワン・トゥ・ラブPlease Send Me Someone to Love」はハーモニーとして洗練され、かつ、歌詞も完成されたものだった。
彼はハンサムでもあったので熱烈なファンもいたが、1952年の自動車事故で顔を損傷して公の場に出ることが怖くなり、レコードや作曲は続けたが演奏はしなくなってしまった。ジェシー・ベルビンJesse Belvinは、もしソロ活動の芸に専念していれば、このようなアーティスト達の中でもっとも有名になっていたかもしれないが、マービン・フィリップスMarvin Phillipsと組んで、ジェシー&マービンJesse and Marvin(マービンは、長年にわたって『ジェシーJesse』と名乗るベルビン以外のボーカリストと一緒に、マービン&ジェシーMarvin and Jesseとしてヒット曲を出し続けた)としてレコーディングし、ロスアンゼルスの先駆者的ボーカル・グループ、ハリウッド・フレームズThe Hollywood Flamesにも所属していた。
もう一人のエンターテインメント起業家はジョニー・オーティスJohnny Otisだ。
ロサンゼルスのワッツにあるナイトクラブのバーレルハウスthe Barrelhouseで、ドラムやビブラフォンを演奏して自分のバンドをフィーチャーしただけでなく、サボイ・レコードSavoy recordsやモダン・レコードModern recordsなどのレーベルのためのタレント・スカウトとしても働いていた。
ジョニーの最初の掘り出し物はリトル・エスターLittle Esther(Phillips)であり、見つけて売り出した時には15歳、バックはロビンズThe Robins(もちろんジョニー・オーティス・クインテットThe Johnny Otis Quintetteであり、その名前でレコードはリリースされた)で、1950年に「ダブル・クロッシング・ブルースDouble Crossing Blues」はチャート1位になった。