今になって思えば、1952-1953年の期間は、リズム&ブルースのスタイルの重要な転換点だった。古いタイプのジャンプ・ブルースはまだ流行っていて、ビッグ・ジョー・ターナーBig Joe Turnerはアトランティック・レコードAtlantic recordsで名作を数曲作り、
ロイ・ミルトンRoy Milton、
チャールズ・ブラウンCharles Brown、
エイモス・ミルバーンAmos Milburnはヒットを出していたが、他のソロ・アーティストはブルースとポップの間のどこかに、新たな領域を探索していた。
最も輝かしいスターの一人、ジョニー・エースJohnny Aceは、さらにもう一人のメンフィスのシンガーであり、非公式な若者グループであるビール・ストリーターズThe Beale Streetersの一人で、一緒にたむろしていて地元で人気があった。
エースの「マイ・ソングMy Song」はナンバー・ワン・レコードになり、10代の女の子に大人気だった。
この曲は、メンフィスのタレントを呼び物にする新レーベルのデューク・レコードDuke recordsからリリースされ、ヒューストンのドン・ロビーDon Robeyは、自分のブロンズ・ピーコック・クラブBronze Peacock clubにちなんだ名前のピーコック・レコードPeacock recordsをすでに所有していたが、メンフィスに行ってデューク・レコードとジョニー・エースをすぐに買収した。
テキサス出身のフロイド・ディクソンFloyd Dixonは幅広いスタイルの曲を書いて歌い、「コール・オペレーター210 Call Operator210」は1年中ジュークボックスでかかった。