ドミノーズThe Dominoesは、バスがリードする名曲の「シックスティ・ミニッツ・マンSixty Minute Man」で、ポップ・チャートでもなんとかヒットした。
この歌詞は露骨なわいせつではないものの思わせぶりなので、ラジオ局はかけようとはしなかった。これらのグループはどれも、古いボーカル・グループを少しモダンにしたような感じで変わろうとしていたが、独自のスタイルでのヒットはなかった。
1951年に起きた最も変わったことはたぶん、大酒のみでトロンボーンを演奏し、オペラ歌手ジークリンデ・ワーグナーSieglinde Wagnerのファン(アランは自分の娘にジークリンデと名付けた)であるクリーブランドのアラン・フリードAlan Freedのことだった。
アランはオハイオ州のいろいろなラジオ局でしていた仕事に問題を抱えていて、最終的にWJW局の深夜時間帯に飛ばされてしまった時に、クリーブランド市最大のレコード店の一つ、レコード・ランデブーRecord Rendezvousを所有するエリオット・ミンツEliot Mintzという男と話をした。
ミンツの話では、白人ティーンエイジャーがひっきりなしに店にやって来て、無名の黒人のレコードを注文するとのことだった。白人ラジオ局で黒人レコードしかかけないラジオ番組があれば、それを聴く人間はいるとミンツがアランに言ったのだ。これはリスキーな提案であり、放送局幹部にどう説得させるか、特にトラブルメーカーとしての自分の評判をどうするかとアランは考えたが、ミンツは大量に広告をするだけでなく、他の企業にも広告を出してもらうと約束した。そして6月、「ザ・ムーンドッグ・ショーThe Moondog Show」の放送を開始し、人気があるとミンツが言うレコードをかけ、WJW局による55キロワットのクリアーな周波数帯域の電波を使って、オハイオ州とペンシルバニア州にガンガン流したところ、大気の状態が良ければアメリカの他のエリアにも届いた。
間もなくレコード流通業者は、とりわけクリーブランドの売り上げが急増し、深夜の聴取率が上昇していることに気づいた。WJW局は、アランがサックスのソロに合わせて吠えたり「ゴー!ゴー!」と叫んだり、マイクのそばに置いてあるクリーブランドの電話帳をドンドンたたいたり、あるいは狂人のようにふるまっても、やりたいようにさせた。
もちろん、フリードは黒人レコードを最初にかけた白人DJではなく、前述の通り、WLAC局がしばらく放送していたし、別の熱狂的愛好家のデューイ・フィリップスDewey Phillips(サム・フィリップスSam Phillipsの親戚ではないが、しばらくの間レコード・レーベルを共同所有していた)は、ブルース、リズム&ブルース、最新のヒルビリー・ブギのレコードを抜け目なくミックスさせてメンフィスのティーンエイジャーを喜ばせ、ロサンゼルスではひょろっとしたテキサス人のハンター・ハンコックHunter HancockがKGFJ局で大スターになり、彼のハンティン・ウィズ・ハンターHuntin’ with Hunterショーは、16インチのディスクで全国のラジオ局に配給された。
しかしアランはクリーブランドにいるわけで、そこはシカゴやデトロイトに比べれば黒人の音楽シーンとしては小さかった。この現象を推進したのはティーンエイジャーで、そのほとんどが白人だった。どこかの時点でこの音楽を、ある種のレコードに対してリスナーがすでに使っている言葉の一つで呼んだ。ロックンロール。アランは、リズミカルな黒人音楽に当てはめた言葉の著作権を後で取ろうと試みたが、最初に使った人間では決してなく、その使用例は少なくとも1930年代にさかのぼる。この言葉によって、子供たちが集まる旗印と、まじめ人間にはわからない暗号名を手に入れることができた。