エイブラムソンはワシントンDC近くでツアーをしているルースを見つけ、レコーディングさせるためにニューヨークに呼び出した。マネージャーのブランシュ・キャロウェイBlanche Calloway(バンドリーダーのキャブ・キャロウェイCab Callowayの妻)と一緒に行く途中、フィラデルフィアを出てすぐのところで自動車事故に遭った。
動けるようになるとすぐにブラウンはニューヨークに行きアトランティックのクルーを驚かせたが、クルーは、昔ながらのジャズ・ギタリストで素晴らしいタレントが何人かいるバンドのリーダーであるエディ・コンドンEddie Condonのレコーディングに忙しかった。
ブラウンは足を引きずりながら入って来て、レコーディングしようと選んだ「ソー・ロングSo Long」という曲にコンドンのバンドは感銘を受け、特別に時間をかけてアレンジし、この曲は1949年末にトップテン・ヒットとなった。
ミリアム・エイブラムソンMiriam Abramsonはルースのマネージャーとして契約し、成功の道を歩み始め、その後の10年間に数十曲のヒットをアトランティックで飛ばすキャリアをスタートすることになる。
ルースのスタイルは、ブルース、ジャズ、ポップの曲をこなし、たくさんレコーディングしたが、アトランティック経営の方向性を考えれば、会社にとって理想的なアーティストだった。
デトロイトのストロール街におけるもう一人の住人は、北ミシシッピ州出身で無学の自動車工、ジョン・リー・フッカーJohn Lee Hookerで、ルース・ブラウンの音楽とそれほどかけ離れてはいなかった。
彼の曲の多くは1コードのみで、伴奏がギターだけの飾り気ない昔ながらのブルースであり、彼のように南から離れ北へ働きに来た黒人に都会でアピールするには、演奏対象である群衆よりも大きな声を出すためにエレキ・ギターを使う必要があった。1949年、ジョンが雇ったマネージャーが彼の2曲のデモをロサンゼルスのモダン・レコードModern Recordsに送ったところ、ラベルだけ内容に正しく合わせて、そのままリリースしたのが、ジョン・リー・フッカー&ヒズ・ギターJohn Lee Hooker&His Guitarの「ブギー・チルンBoogie Chillen」だった。
このレコードは、基本的に一人の男と一本のギターが1つのコードを弾くので、戦後の洗練されたレコードとは異なり、ボーカルにもたいして力を入れたわけではなかった。このレコードは大ヒットした。