ナッシュビルにあるもう一つの放送局のWLACもクリアーな電波を送信していたので、ここで珍しいことが起きた。
ほとんどのラジオ局は、放送時間を買い取った人にその分の時間を提供していたので、1人または複数の者が番組の企画を持ち込んで、その人がコマーシャルをする権利と引き換えに放送時間を購入するということがよくあった。1950年までのWLAC局には、ビル・ホス・アレンBill “Hoss “ Allen、ジーン・ノブルスGene Nobles、ジョンR. リッチバーグJohn “John R.” Richbourgという3人のディスク・ジョッキーがいて、ネットワーク番組の終了時刻以降のアメリカ音楽の様相を一変させた。
ノブルスは1947年に番組を開始し、スポンサーはランディ・ウッズRandy Woodsの所有する、テネシー州ギャラティン郊外にあるランディ・レコード・ショップRandy’s Records Shopだった。
ノブルスはスイング・ファンの白人だったので、自然とジャンプ・ブルースやブギ・ミュージックに傾倒していった。夜10時から10時45分までの番組で、みんなの好きなレコードを何でも手に入れられるだろうとスポンサーは話した。数週間もしない内にウッズはノブルスに電話して、みんなが注文した変わったタイトルの曲は何かと尋ねた。レース・レコードか?その通りだったのでウッズは卸売業者に連絡してそのレコードを買い始めた。その後、レコード5枚で2.98ドルの小包にした上で、着払いにして送料と手数料を取るという賢い考えを思いついた。これらのほとんどは成功したが、失敗したものもあった。これは過剰在庫や失敗作を処分するのにうってつけの方策だった。すると、ナッシュビルにレコード店を持つアーネスト・ヤングErnest Youngは、これは儲かると考え、45分の放送枠を買い取り、ノブルスに9時から9時45分までを担当させた。アーニーズ・レコード・マートErnie’s Record Martも通信販売によるリズム&ブルースの小包発送を始めた。
ついに、同じくナッシュビルにあるバックリーズ・レコード・ストアBuckley’s Record Storeが、真夜中の0時から午前1時までの1時間を買い取り、これまたノブルスが放送した。
1947年夏にノブルスは休暇が必要だと判断し、ラジオ局は自社のニュース・キャスターのジョン・リッチバーグJohn Richbourgに引き継ぐように言った。
さらにラジオ局は大学を出たばかりのビル・アレンBill Allenにいくつかの時間枠を持たせた。
ランディとアーニーの店は友好的な競争関係にあり、混乱したリスナーが最新のパッケージ商品を違うお店にしばしば注文してしまい、両店はその注文をすんなり相手側に引き渡した。しかし、放送パーソナリティーのジーン・ノブルス、ホス・アレン、ジョンRは、夜通し聴き手の耳に届き、人によっては奇妙に聞こえるかもしれないが、かなり多くの白人高校生、大学生はその番組を好んで聞き、外向的なDJや、その人達がかける音楽が好きだった。WLAC局の電波は20州に届き、ボブ・ディランBob Dylanは若いころ、ミネソタ州で目を覚ましたまま横になってそれを聞いていた。
しかしもちろん、WLAC局はマーケット・リサーチにお金をかけなかったし、そんなものは当時ほとんどなかった。ランディとアーニーは誰に売っているのかが分からなかったし、もし調べたとしても把握できなかったかもしれない。というのは、親が調べても分からないように、レコード小包を親せきや友人に送るのはよくある手口で、特に南部では、この禁じられた音楽のリスナーたちが、ある種の秘密社会を作っていた。