レオとエディのメスナー兄弟Leo and Eddie Mesnerによるアラディン・レコードAladdin Recordsは、ジャズ・レーベルのフィロ・レコードPhilo Recordsとして1945年にスタートしたが、1948年にエーモス・ミルバーンAmos Milburnの「チキン・シャック・ブギChicken Shack Boogie」がヒットすると、すぐに関心をブルースに転換した。
次がルー・チャドLew Chuddのインペリアル・レーベルImperial labelで、ロサンゼルスのメキシカン・コミュニティの作った音楽のためのマーケットが利用されていないとチャドが感じ、その活用のために設立され、次の2人は何とかある程度ヒットした。
1人はエドマンド・マルティネス・トスタドEdmundo Martinez Tostado、通称ドン・トスティDon Tostiで、メキシコの町、タスコを歌った「パチュコ・ブギPachuco Boogie」は、東ロサンゼルスの10代にとってテーマソングであり、ドンの数あるヒット曲の中で初ヒットとなった。
もう1人はラロ・ゲレロLalo Guerreroで、その「ミュイ・サブロソ・ブルースMuy Sabroso Blues」と「マリフアナ・ブギMarihuana Boogie」もインペリアル・レコードにとって大ヒットになった。
しかし、ニューオーリンズでレコーディングした2、3曲が多少ヒットした後、チャドはニューオーリンズへ行ってタレントをスカウトし、バンドリーダーのデイブ・バーソロミューDave Bartholomewによってハイドアウェイ・クラブに連れて行かれ、20歳のピアニストのアントイン・ファッツ・ドミノAntoine “Fats” Dominoを発見する。
ドミノは、ジェリー・ロール・モートンJelly Roll Mortonやそれ以前にはるばると遡る「ピアノ・プロフェッサー」の伝統を継承していた。
ニューオーリンズはイーストLAよりも金を稼げると、チャドは直感した。