すぐにバンドは、マディの家のすぐ近く、アシュランド街と13番街にあるクラブ・ザンジバーに居場所を見つけ、そこでパワーと自信にあふれた全く新しいブルースを演奏し始めた。
それにはエレキ楽器(そして、リトル・ウォルターLittle Walterはハーモニカの音量を増幅するためにマイクロフォンを使った)のボリュームという面と、マディがエレキに変換したスライド・ギターなどの田舎風サウンドという面があり、ホームシックになった移住者に南部の生活を思い出させると同時に、都会のエレキ・サウンドという面もあった。
シカゴでそんなことをする人はいなかったので、他のミュージシャンは呆然とした。このころまでに、チェス兄弟The Chess brothersは、アリストクラット・レコードAristocrat Recordsのためのタレント・スカウトに、サミー・ゴールドバーグSammy Goldbergという不釣り合いな名前の黒人を雇ったところ、彼はマディの才能のうわさを聞いた。
ある日サミーはミュージシャン組合のホールでマディにばったり出会ったので、演奏を聞かせてほしいと頼み、マディの演奏を気に入った。そのすぐ後に、チェス兄弟はセッションをしていて、ピアニストのサニーランド・スリムSunnyland Slimは自分も参加させてほしいと申し出た。
休憩の間、スリムはチェス兄弟にマディ・ウォーターズMuddy Watersを聞くべきだと話し、ゴールドバーグも熱心に賛成した。レナード・チェスLeonard Chessは、サニーランドに命じて、マディを迎えに行かせた。
今すぐ。彼らはマディの職場(このころには、ウェスタングレード・ベネチアン・ブラインズ会社the Westerngrade Venetian Blinds companyのトラック・ドライバーとして運転していた)を突き止め、母親が病気だからすぐに帰った方が良いと言った。マディの母親は病気よりももっと悪くて、数年前に亡くなっていたので、マディは何か大事なことが起きていると考え、家についてみるとサニーランドがいて、セッションが進行中でマディが来るのを待っていると説明した。マディはすぐにギターを持ってアリストクラット・レコードAristocrat recordsまで運転して行った。
マディの名前で曲がリリースされたのは1948年2月で、あまり売れ行きは芳しくなかったが、チェス兄弟もマディ・ウォーターも思っていなかったシナジー効果があり、一方が他方を有名にし、またその逆もしかりだった。
アリストクラット/マディ・ウォーター物語the Aristocrat/Muddy Waters storyは1940年代後半の都会の黒人ポピュラー・ミュージックのミニチュア版物語だった。
問題はどうやってお金を儲けるかなのだが、その一つの方法がレコード制作で、ほかの場所で忙しくライブ演奏している間にミュージシャンの評判が高まったのだ。リロイ・ハートLeroy Hurteが判断したように、初期投資はかなり小さくて済む。
もし、地元の人に届くだけで良いのなら、ジュール・ビハリJule Bihariやレナード・チェスLeonard Chessと同じくらい綿密にストロール街を知ることが必須で、レコード店はほとんどないものの、たくさんのジュークボックス、美容院、ニューススタンド、たばこ屋、ラジオ修理店は78回転レコード販売用の棚を備えるのは厭わないだろう。
そして、レコ―ディングをしてほしいと思っている才能ある人がいることは間違いない。