一方、シカゴでは、野望を持った別の二人のユダヤ人兄弟が、近所で黒人音楽が誕生していくのを注目していた。レザールLejzorとフィゼルFiszelのチジュCzyz兄弟は、シカゴで酒店を開き繁盛していたポーランド移民の息子達だ。
チジュ兄弟は、可能になると早速ジャズクラブ経営に乗り出し、名前をレオナルドLeonardとフィリップPhilipのチェスChess兄弟と改名した。
1940年代半ばまでに、チェス兄弟はマコンバ・ラウンジthe Macomba Loungeクラブを開き非常に好調で、観客は出演している中で好きなタレントもいるが、演奏者は自分たちを宣伝する方法がないので行き詰っているということを知った。
1947年、レオナルドはアリストクラット・レコードAristocrat Recordsというレコード・レーベルに投資し、すぐ、フィルと一緒に承継した。
1947年以後レコーディング禁止は解除され、最初のころのレコードは無名の演奏者で、ファイブ・ブレーザーズThe Five Blazersはアリストクラット201 Aristocrat201でレコードを出し、
クレアレンス・サムエルスClarence Samuels、
ジャンプ・ジャクソンJump Jackson、
アンドリュー・ティブスAndrew Tibbs、
マコンバthe Macombaのレギュラー出演者のトム・アルチアTom Archiaもレコードを作った。
自分たちは気が付いていなかったが、チェス兄弟はマッキンリー・モーガンフィールドMckinley Morganfieldを待っていた。
モーガンフィールドは運が良かった。ストーバル出身の友人ダン・ジョーンズ・シニアDan Jones Sr.が家主のためにアパートをきれいにしようとトラックを使っていて、手伝いとしてこの若いモーガンフィールドを雇った。人々が残していった電気製品やその他のものを手に入れただけでなく、空室情報をいち早く聞きつけ、間もなく1か月12ドルで、大きく快適なアパートに入れた。住む家は希望通り見つかったが、仕事は希望通りではなかった。