シカゴも、戦時中、黒人労働者を惹きつけたが、彼らのほとんどはメンフィスからシカゴに直行するイリノイ・セントラル鉄道に乗って、主にミシシッピ州とテネシー州から来た。
これらの労働者の多くはロサンゼルスに行く者達よりも熟練しておらず、新しい綿摘み機が導入されると、手作業がほとんど時代遅れになったので、ますます小作農の仕事から追い出された。しかし、製鉄所や食肉処理場の仕事には大した技術は不要だったし、南部の田舎にいた黒人は以前から北に移住していたので、シカゴに親戚のいる者も多かった。マッキンリー・モーガンフィールドMckingley Morganfieldの場合もそうで、チャーリー・パットンCharley Pattonとサン・ハウスSon Houseが生活していたのと同じストバルズ・プランテーションStovall’s Plantationで育ち、農業労働者からトラック・トラクター運転手へと働いて出世するとともに、プランテーションのエンターテイナーでもあった。
1941年のある日、黒人のフォーク・ミュージックを録音して米国議会図書館に納めている二人の人物、ワシントンDC出身のアラン・ロマックスAlan Lomaxと、メンフィス出身で黒人民俗学者のジョン・ワークJohn Workが巨大な録音装置を持ってきて、モーガンフィールドMorganfieldと一緒に3曲録音した。
ロマックスはワシントンに戻って、旅で録音した音源を編集して5枚組のベスト「アルバム」にした。演奏者の中で唯一、レコード1枚丸ごとを自分一人で演奏したのがモーガンフィールドで、ロマックスは彼にそのレコードを送った。モーガンフィールドはそれを受け取るとすぐに、初めて自分で聞いた。即座に一番良いスーツを着て、レコードを持って一番近くの写真館に行き、それを持っている写真を撮ってもらった。ロマックスとワークは次の夏に戻ってきて、さらに録音した。次の夏までに、モーガンフィールドは北への脱出に加わった。モーガンフィールドの母親には親戚がいて、モーガンフィールドが自分の住まいを見つけるまでそこに滞在した。
軍需物資として代替プラスチックが開発されたものの、戦争が終わりに近づいても原料のシェラックの供給は不足していた。
誰もレコードを買わなかったが、その理由は売っているレコードがなかったからだ。その後、1枚のレコードがあった。1944年の戦時国債の集会で、ナッシュビルからやってきた小さな黒人兵が、ある曲を演奏したい頼んだところ、とても好評だったので、誰かがその黒人兵と一緒にレコードを作った、という話が当時広まった。「アイ・ワンダーI Wonder」は、戦時下にぴったりの曲で、遠く離れてしまった恋人が裏切らないでいたかどうかを疑う歌で、多くの米軍兵士が直面する状況だ。しかし、真実はもっと平凡な話で、兵卒のセシル・ガントCecil Gantがブロンズ・レコーディング・スタディオスBronze Recording Studiosにふらっと入り込んで、レコード作成を依頼した。
担当のリロイ・ハートLeroy Hurteは、レコードを作るためにプレスするシェラックがセシルにはないことを言わなかったが、セシルが演奏した曲を聴いて、そのうちの一曲を気に入った。
「それが売れると思った」とハートは後に語った。どこでシェラックを手に入れたかは不明だが、レコードを何枚かプレスして、地元で配った。その曲は人気が出た。だが、ある晩ハートがラジオを聞いていると、DJがそれを「ギルトエッジGilt-Edgeのレコード」と放送した。
ギルトエッジは、別の小さなレーベルだが、業界に有力なコネのある白人が所有していた。セシル兵卒はギルトエッジの会社に行き、その会社で再録音できるかを尋ねたところ、既に売れていたレコードなので、もちろんできると、リチャード・ネルソンRichard Nelsonは答えた。その後の混乱の中でそれぞれのレーベルは相手方の著作権に異議を唱えたが、裁判はネルソンの勝訴となった。実は、ハートはレコード・プレス機を購入し、ブロンズ・レコードとしてプレスし、鉄道のプルマン・ポーターズPullman Portersに流通して、ポーターたちが働いていた列車で売ったり(レコードだけでなく黒人の出版物も昔から扱っている流通システムだった)、ストロール地区では小売店に手渡しした。
ネルソンは、全国の流通ネットワークを活用し、国中のラジオで放送させた。ガントの方は、ギルトエッジでもう少しレコードを作ったところ、よく売れたが、その後3年間は行方不明だった。1948年にナッシュビルのビュレット・レーベルBullet labelからから再び姿を現し、1951年に肺炎で亡くなった。