しかし、セントラルをさらに行くと事情が変わる。そこには、もっと後になってやってきた人々の定住したワッツというエリアがある。
彼らの求めたエンターテインメントは、上品なナット・キング・コールのタイプではなくブルースだった。フランクリンDルーズベルト Franklin D. Rooseveltが軍需産業を統合したとき、造船、溶接などの役立つ技術を持つ黒人は、ルイジアナ、オクラホマ、テキサスを離れて、まっすぐカリフォルニアに向かい、大勢の人々がセントラルやワッツ周辺に定住した。
ダウンタウンの旧日本人街も、住民が捕虜収容所に送還され財産が押収されて空き家になっていたが、黒人が移転してくるにつれ、その地域は一変した。新参者は洗練された住民と打ち解けあうようにできることをしたが、ある程度の摩擦は残った。
それはクラブで顕著だった。ビーバップとリズム&ブルースとして知られたものが、おおよそ同時に流行した。1945年、ハリウッドのジャズ・クラブ、ビリー・バーグズBilly Berg’sに、チャーリー・パーカーCharlie Parkerとディジー・ガレスピーDizzy Gillespieが出演したが、商売としては赤字だった。
クラブが儲からなかった理由の一つは、デクスター・ゴードンDexter Gordon、ワーデル・グレイWardell Gray、チャールズ・ミンガスCharles Mingusなどの若い地元の男たちが、音楽を聞くのにちびちびコカ・コーラしか飲まなかったからだ。
しかしそこで聞いたのが未来の音楽だった。一方、ジミーとジョーのリギン兄弟Jimmy and Joe Ligginsとロイ・ミルトンRoy Miltonの、3人のオクラホマ人は町に来て三つの小バンドを作り、ブルース形式を主にしたあまりハーモニーが洗練されていない音楽を演奏し、ダンス用に受ける曲を歌っていた。
テキサス出身のギタリスト、ピー・ウィー・クレイトンPee Wee Craytonは定住後、別のテキサス人のサクソフォン奏者、オーネット・コールマンOrnette Colemanなどとバンドを結成した。
元ミシン・セールスマンのビッグ・ジェイ・マクニーリーBig Jay McNeelyは、テナーサックスをガンガン鳴らす原始的スタイルを広めてファンを獲得した。
そして戦時下の賃金を十分持っていたロサンゼルスの黒人たちは、その成功を後押しした。