第2章 独立系レーベル
ミュージシャンは、それをストロールthe Strollと呼ぶ。
黒人もいるそこそこの大きさの町にはストロールがあり、そこにはナイトクラブ、床屋、バーベキュー、チキンとワッフルの店が必ずあった。ストロールには、カラー映画の上映館、黒人コミュニティ相手の開業医、歯医者、保険会社、葬儀屋などが軒を連ねていた。ちょっと離れた脇には教会があった。時折、黒人のエルクスなどの友愛会組織があって、そこにホールを持ち、貸し出していた。ストロールは黒人コミュニティのメイン・ストリートで、中心部だった。他より大きいところもあり、ニューヨークの125番街、メンフィスのビール・ストリート、ロサンゼルスのセントラル・アベニューのように、伝説的で白人にとっての五番街やシャンゼリゼ通りという独特のものという言い方をされるものもあった。そして第二次世界大戦の間、黒人のエンターテインメント・ビジネスは難しかったが、閉鎖されることはなかった。大スターならできるだけたくさんツアーをする(そして変わった場所にも行き、1941年には、デューク・エリントンDuke Ellingtonオーケストラが、ノース・ダコタ州ファーゴで、間違いなく全員白人の観客に演奏したのが有名)ことによって支払いができたが、多くのもっと小さなバンドは、男性・女性一人ずつのボーカリストとインストゥルメンタルのソリストが二人で、割り当てによってツアーが制限される一定の地理的エリア内に留まった。
彼らのレパートリーは幅広くて、ポップの曲に、ブルースやルイス・ジョーダンLouis Jordanスタイルのノベルティ・ソングが混ざっていた。
これらの小さなバンドが演奏したブルースは耳に快く洗練された傾向があり、南部の地方から移住してきた集団で構成されるシカゴのブルーバードBluebirdの演奏したものとは全く違っていた。この新しい音楽のためのモデルは、ピアノ、ギター、ベースからなるナット・キング・コール・トリオThe Nat King Cole Trioが生み出した。
コールはストレートにジャズをレコーディングすることによって始め、自分の声の聞こえ方が好きではなかったが、自分のバンドに(そしてのちには聴衆に)押されて、ボーカルとしてレコーディングを始めた。このグループはとても人気があることが分かり、もし戦争とレコーディング禁止によって邪魔されなければ、もっと早く台頭していたであろうが、そのサウンドは派手で管楽器主体のコンボとは良いコントラストだった。コールの縄張りはハリウッドだったが、他のミュージシャンはセントラル・アベニューのストロールで演奏していた。
セントラル・アベニューは、ほとんど最初から伝説になるほどで、テキサスから黒人の鉄道労働者が20世紀初めに移住し、1920年までに、セントラル・アベニューはほとんど黒人のロサンゼルスになった。
しかし、そこを歩くことはとても散策とは言い難く、セントラル通りを行くと、30ブロックの長さで、もちろん住居部分は脇道に広がっている。しかし、セントラルには伝説的建造物もあり、豪華なダンバー・ホテルthe Dunbar Hotelは金持ちの黒人がとてもよく訪れ、その隣には有名なナイトクラブのエーペックスthe Apexがある。
このクラブは後に名前をクラブ・アラバムthe Club Alabamに変えて、ニューヨークのコットン・クラブCotton Clubに相当するロサンゼルスのホテルになったが、スラム街によくいる白人の姿はなかった。
スパイクス・ブラザース・ミュージックSpikes Brothers Musicは12番とセントラルのところにあり、歴史のある店で、楽器、楽譜、そして後にレコードを地域の人に売り、2ブロックほど行くだけで、黒人ミュージシャン組合があった。バーノンVernonとセントラルCentralの角には、デューク・エリントンDuke Ellingtonのもっとも偉大な女性ボーカリストが経営していたアイビー・アンダーソンズ・チキン・シャックIvie Anderson’s Chicken Shackがあり、もう少し行くとブロンズ・レコーディング・スタディオスBronze Recording Studiosがあって、これもエリントンとつながっていた。
というのは出資者の一人がハーブ・ジェフリスHerb Jeffriesで、かつてはエリントンのボーカリストだったが今は西部劇を得意とする黒人映画のスターとなり、「青銅のカウボーイthe Bronze Buckaroo」というニックネームがついた。