1927年にブリストル・セッションBristol sessionsで発掘されたのは、カーター・ファミリーとジミー・ロジャースだけではなく、それ以外にエク・ダンフォードEck Dunfordとブラインド・アルフレッド・リードBlind Alfred Reedもいたが、彼らはずば抜けて重要だった。
カーター・ファミリーはほとんど一夜にして成功したし、ロジャースはビクターVictorでもう一回セッションを依頼されて、最初の「ブルー・ヨーデルスBlue Yodels」を制作した結果、スターダムにのし上がった。
これら二組のアーティストがビクターに大金をもたらした結果、ビクターはテネシー州ナッシュビルに地域事務所を開所することを決断したが、ナッシュビルには、1925年に始まって成功したローカル・ラジオ番組グランド・オール・オプリthe Grand Ole Opryがあった。
ナッシュビルはかつて保険と聖書の印刷で名をはせていたが、その後、カントリー・ミュージックとレコード産業のカントリー・ミュージック部門は主にナッシュビルに集中した。ただし、ナッシュビルのお偉方たちは少なくとも1980年代まで、この考えを嫌っていた。
ビクターは1928年に再度ブリストルで開催してみたし、特に1928年、29年にテネシー州ジョンソン・シティでコロンビア・レコードColumbia Recordsが行ったのが最も有名で、他のレーベルも同様の集団オーディションを実施した。1927年のセッションをカントリー・ミュージックの『ビッグ・バンBig Bang』と称したのは、ブリストルにある音源をすべて集めたのだから、全く正しい。
カーター・ファミリーは、ACカーターが書いた曲と、商業化する目的で歌詞を書き直したり詩を付け加えたりして見栄えを良くしたフォーク・ソングを混ぜた。芸歴の後半では、ある黒人運転手を雇ってツアーでいろいろ移動してもらい、カーター・ファミリーのために歌の収集に行ったことが分かった。ロジャースに関しては、ポップの伝統にしっかり則ってはいたが、病気がちだった幼いころ、父親が働いていた鉄道駅構内のあたりをうろうろしているときに聞いていた黒人音楽に影響を受け、自分のレコードに『ブルー・ヨーデルblue yodel』とハワイアン・スチール・ギターを使った。両アーティストとも、作曲し著作権を保護しながら、ポップ・アーティストとしての意識を持っていたので、「ヒルビリーHillbilly」の分野としては稀有な存在だった。もちろん、以前は存在しなかった音楽分野を発明していたので、思った通り自由に実験していて、特にロジャースは、より保守的なカーター・ファミリーと一緒にレコーディングしたり、ビクターで大成功しているルイ・アームストロングと一緒に2曲レコーディングしたりした。