パラマウント・レコードParamount recordsは、レース・ミュージック市場に参入した唯一の企業では決してなかった。このような不確かな聴衆をあえて追いかける会社は、ほとんどの場合、試しにやる程度で、普通はレース・ミュージックを、「クレージー・ブルースCrazy Blues」などのちょっと変わったヒット曲で利益をあげられるかもしれない、数ある小さな市場の一つに過ぎないものとして扱っていた。
マミー・スミスMamie Smithのレーベルのオーケー・レコードOkeh recordsは、オットーKハインマンOtto K. Heinemanというドイツ系移民が経営し、ユダヤ人のイディッシュ音楽など少数民族の音楽をある程度専門にしたが、ほとんどのレース・レーベルはジャズに集中していた。
というのは、ジャズの聴衆は初めからクロスオーバーする白人だったし、ルイ・アームストロングLouis Armstrongやデューク・エリントンDuke Ellingtonなどのアーティストのいる黄金時代が始まっていたからだ。
ジャズは、レコード会社に近いニューヨークやシカゴなど都心でも制作されていた。
したがって、新興のレコード音楽産業が、地方の白人音楽を調査するのに時間がかかったのも無理はない。実は、レコード会社から出向いたのではなく、演奏者がレコード会社に足を運んだのだ。1922年に、テキサス州アマリロのACエック・ロバートソン A. C. “Eck” Robertsonと、バージニア州出身のヘンリー・ジリランドHenry Gillilandは、フィドルのフェスティバルで優勝するとすぐに列車でニューヨークに行き、カウボーイの衣装(ロバートソン)と南部連合軍の制服(ジリランド)を着て、ビクター・レコーディング・カンパニーVictor Recording Companyを訪ね、レコーディングをさせてほしいと頼みこんだ。
ひょっとすると、二人を追い払うだけのために、ビクターは「アーカンサス・トラベラーArkansas Traveler」と「サリー・グッデンSallie Gooden」を録音したのかもしれない。
それは変わったレコードで、フィドルが2本しかなく、そのうえ、別々の流儀のフィドル演奏者だったが、誰かが発売すると決めて、それが売れたのでビクターは驚いたのだ。ビクターが関心を寄せているという噂が立って、1924年、軽歌劇やポピュラーソングを録音していたボーカリストのマリオン・トライ・スローターMarion Try Slaughterはテキサス州の町名、バーノンVernonとダルハートDalhartをとって芸名とし、「ザ・プリズナーズ・ソングThe Prisoner’s Song」をビクターで録音してキャリアを復活させた。
スローターが南部なまりで歌ったこともあって、この曲は超大ヒットになり、バーノン・ダルハートVernon Dalhartは一躍スターになった。ほかの伝統的ミュージシャンもチャンスがあると見て、フィドリン・ジョン・カーソンFiddlin’ John Carson、ヘンリー・フイッティアHenry Whittier、アーネスト・ポップ・ストーンマンErnest “Pop” Stoneman、アンクル・デイブ・メイコンUncle Dave Maconは、少なくともある程度は伝統的なレパートリーでレコーディングの道を歩み始めた。