ウィリアムズが本当に幸運だったのは、HCスパイア H.C.Speirと知り合えたことで、スパイアはミシシッピ州ジャクソンの黒人街に店を構える白人で、周辺地域には音楽の才能あふれる黒人がたくさんいることに注目していた。
その黒人たちは店に来て蓄音機とレコードも買った。スパイアの革新的なところは、録音装置を買い、録音してそれをレコード会社に送りたい人のデモを作ったところで、もしレコード会社がそのアーティストに興味があれば、スパイアに仲介手数料を支払った。スパイアは決してパラマウントだけと取り引きしていたのではなく、演奏者をビクター・レコードVictor recordsやデッカ・レコードDecca recordsに送り込み、そして最も有名なのは、後になって結局はコロンビアColumbia recordsに吸収されたアメリカン・レコーディング・カンパニーAmerican Recording Companyに、ロバート・ジョンソンRobert Johnsonを引き合わせたことだ。
スパイアは、1927年になぜかパラマウントを去るまで、ウィリアムズと一緒に金脈を当てた。パラマウント・レコードはスパイアが見つけ出したたくさんの人達に、ウィスコンシンに来るための鉄道切符を送り始め、あまり商業的価値のないアーティストたちは、スパイア自身がパラマウントに送り込んだ。そこには、チャーリー・パットンCharley Pattonもいて、チャーリーは歌手とブルースを結びつける懸け橋となるとともに、ジョンソンJohnson、ローバック・ステープルスRoebuck Staples(後にゴスペル・センセーションを巻き起こしたステープル・シンガーズThe Staple Singersを結成)、(後にハウリン・ウルフHowlin’ Wolfとして知られる)チェスター・バーネットChester Burnett、ニーアマイア・スキップ・ジェームズNehemiah “Skip” Jamesなどすべての人にとって素晴らしい相談相手となった。