マ・レイニーがレコーディングしたレーベル、パラマウント・レコードParamount Recordsが注目に値するのは、ウィスコンシン州ポート・ワシントンにあるウィスコンシン・チェア・カンパニーWisconsin Chair Companyから分離独立した組織で、人気の出てきたビクトローラ蓄音機Victrolaを製造し始めたことだ。
1917年、パラマウント・レコードはビクトローラ蓄音機にかけるレコードを製造する会社を設立することに決めた。
最初にパラマウントがリリースしたのは、よくあることだが、いろんなものが混ざっていて、ハワイアンの曲、アイルランドの変わったもの、おなじみの喜劇、そしてなぜだか、マリンバ・オーケストラのレコードがたくさんあった。その後、マミー・スミスMamie Smithが取っ掛かりを作って、パラマウントは、「レース・マーケットrace market」と言われ始めた黒人音楽に参入すると発表した。
パラマウントの最初のスターは、ブルースだけでなくポップも歌える上品なボーカリストのアルベルタ・ハンターAlberta Hunterで、彼女が成功したことによって、元NFLプレーヤーでブラウン・ユニバーシティーBrown Universityを卒業したJメイヨー・インク・ウィリアムズ J. Mayo “Ink” Williamsが一つの可能性を見い出した。
ウィリアムズはシカゴでうろうろしながら細々とした商売をしていたが、ある日パラマウントに話をするためにポート・ワシントンに向かった。ウィリアムズは、駅から歩いていくと小さな子供たちにじろじろ見られて、大胆な子は彼を触ったことを覚えている。子供たちはそれまで黒人を見たことがなかったのだ。ウィリアムズはパラマウントに、黒人音楽制作のメッカ、シカゴに住んでないのに、黒人音楽の世界に精通していると言い、パラマウントがシカゴの新しいレコーディング・スタディオを運営する人間を必要としていることをウィリアムズが知ると、交渉は成立した。ウィリアムズは直ぐに仕事にかかり、間もなくしてレコーディングしたのが、シカゴ出身で人気があるバンジョー演奏のストリート・パフォーマーであるパパ・チャーリー・ジャクソンPapa Charlie Jackson、ブルース歌手のマ・レイニーMa Rainey、
エセル・ウォータースEthel Waters、アイダ・コックスIda Cox、
さらに次のセッション、アルベルタ・ハンターAlberta Hunter、そして、全部ではないが大部分はニューオーリンズから来たジャズ・ミュージシャンの、フレッチャー・ヘンダーソンFletcher Henderson、
フレディ・ケッパードFreddie Keppard、キング・オリバーKing Oliver(ルイ・アームストロングが一緒の時もそうでないときもあった)、
自称ジェリー・ロール・モートンJelly Roll Mortonのフェルディナンド・ラメンテFerdinand LaMentheがいて、彼らのことを待ち構えていた観客がシカゴにはいた。