第1章
レコード産業 レースとカントリー
1920年2月14日(もしかすると8月10日かも知れないが、記録するほど重要なことではない)、黒人ボードビル歌手が、別の歌手のキャンセルしたセッションを利用してレコーディングを行った。マミー・スミスMamie Smithのバックはペリー・ブラッドフォードPerry Bradfordの集めたバンドだった。
ペリーは若いが黒人ミンストレル・ショーのベテランで、ソングライターでもあり、現代のレコード・プロデューサーで、創業したばかりのオーケー・レコードOkeh Recordsに、黒人はレコードを買うのに十分な量の蓄音機を持っていると確信させた。
ペリーはかつて、スミスと一緒に仕事をしたことがあったが、その時スミスはペリーの2曲「ザット・シング・コールド・ラブThat Thing Called Love」と「ユー・キャント・キープ・ア・グッド・マン・ダウンYou Can’t Keep a Good Man Down」をレコーディングし、そのレコードは5万から10万というかなりな売れ行きだった。
再びスミスにレコーディングさせるチャンスが来て、ペリーは自分の曲をスミスに2曲渡した。「クレージー・ブルースCrazy Blues」はブルースではなかったが、録音された曲のタイトルにブルースbluesの付いた最初だった。
1か月で7万5千枚、最初の1年で100万枚以上売れたので、スミスはスターになり、ペリーは、ルイ・アームストロング Louis Armstrongなど前途有望なスターと仕事をするチャンスをもらい、オーケー・レコードを有名にし、ブルースの流行に火をつけた。
女性ブルース歌手たちが突然レコードに現れ、本物のブルース・ソングを歌い、そしてとても奇妙なことだが、そのうちの多くがスミスを名乗った。ベシーBessie、アルバータAlberta、クララClara、トリキシーTrixieなどだ。
彼女たちのほとんどは、マミーがブルース歌手の正装として取り入れた、凝ったガウン、大きな帽子、派手な宝石を身に着け、昔ながらのA-A-Bソング形式で歌った。彼女たちは突然どこからともなく現れたのではなく、ガートルード・マ・レイニーGertrude “Ma” Raineyは、アサッシネイターズ・オブ・ザ・ブルースAssassinators of the Bluesとして、何年も前から夫と一緒に演奏してブルースを歌っていた。
最初、レイニー夫妻The Raineysは有名なラビット・フット・ミンストレルズThe Rabbit Foot Minstrelsと一緒にツアーしたが、このショーでは、かなり後になって若いころのルーファス・トーマスRufus Thomasがキャリアを開始し、20世紀の後半にメンフィスの象徴となった。
レイニー夫妻は、その後テント・ショーの段階へと進んだ。マ・レイニーは、マミー・スミスには便乗しなかったが、1923年にいざレコーディングを始めると、100以上の曲を制作した。