最も初期の蓄音機には、エジソンEdisonのシリンダー方式ではなく世界中でエミール・ベルリナーEmile Berlinerの円盤方式が採用され、レコード会社のパテPatheが採用した内側から外側に向かう規格ではなく、外側から内側に向かって再生する規格になると、頑丈な家具になった。
鋼かサボテンのとげで作った針を通して円盤から出て来る音響信号を、大きな仕切り空間で増幅する必要があったが、それでも夢中になった蓄音機の持ち主は機械のすぐ傍に座らなければならなかった。隣の部屋でレコードをかけても聞こえない。
人々は何を聴いていたのだろう。アッパーミドル以上の経済的階級は、クラシック、ライトクラシック、オペラ楽曲、ニューヨークで流行っていたミュージカルの楽曲、愛国的な楽曲(ジョン・フィリップ・スーザJohn Philip Sousaのバンドが人気だったが、彼の有名なマーチだけではなく、バンドのために作った楽曲も人気だった)、ボードビル・ショーの喜劇の寸劇(ユダヤ、黒人、アイルランドの訛りも頻繁に使われた)、そして、たまには式典で霊歌を歌う黒人合唱団が目新しかったし、さらに斬新なものとして、ディンウィディー・カラード・カルテットThe Dinwiddie Colored Quartetが、黒人霊歌などの『デム・ボーンズDem Bones』と、ミンストレルの幕間で顔を黒く塗ったコメディを組み合わせたものもあった。
あまり知られていないが、この主流の出来事であるレコード以外に大きな変化がいくつか起きていた。一つは、巡業ミンストレル・ショーの中の、料金が安い番外編の一つであるメディスン・ショーが、アメリカ南部の田舎で現れ始め、黒人と白人の演技者を、時には一緒に、今までプロのエンターテイナーを見たことのない地域に連れてくるようになったことだ。
彼らは演奏し歌い、信じられないような効き目があって、キャラバン隊が町を出るまで低価格で入手できる奇跡の薬(ほとんどがアルコールで、添加剤としてアヘンからガソリンまで、なんでも使った)を売り込む準備を地元の人々にさせた。これらのショーに出演していた人たちは、上流社会からは人間の屑とみられていたが、田舎では別世界からの訪問者だった。メディスン・ショーは遥か彼方からやってきたにしても、今まで聞いたこともない楽器のスタイルや形式の音楽を、演奏者たちが田舎の人達に披露したのだろう。加えて、資金が十分にあるメディスン・ショーは、『シンガーズsingers』と呼ばれる安物の小冊子を渡して、ショーの中で歌手に何曲か歌わせたため、スティーブン・フォスターStephen Fosterの歌、聖歌、酒宴の歌等なんでも、以前はこんな音楽を聞いたことがなかった場所に広がって行った(ある『シンガー』は、その内容の半分が1920年代から30年代にかけて、いずれかのアーティストによって録音されていたことが確認されている)。メディスン・ショーは1世紀近く続き、若いミュージシャンにとって演技力研鑽の場になり、田舎にいるのでボードビルのステージに立てない芸能人が喜んで雇用される場所となった。