1959年は、私にとって『理由なき反抗Rebel without a Cause』のジェームズ・ディーンJames Deanの真似をする最後の年になった。
私はこの年、速い車、ロックンロール、そして女の子のことで頭がいっぱいだった。
たとえば、デートで映画館に向かっていたとき、赤信号で隣に車を停めた男が、次の信号まで競争しようと言ってきた。彼女がレコードプレーヤーにかけるために45回転レコードの山を探していることを知っていたが、レースのことは知らせなかった。走り出すと、彼女の手にあった45回転レコードの山は後部座席に飛んでいった。その夜、デートはうまくいかなかった。
1960年末、私は友人の紹介で会ったことのない女の子とデートするブラインドデートをした。友人の車の後部座席で、カーラジオから流れる音楽を聴いていた。その夜かかっていたのは(ラジオはトップ40を流していた)シュレルズThe Shirellesの「ウィル・ユー・ラブ・ミー・トゥモローWill You Love Me Tomorrow」と
キャシー・ヤング&イノセンツKathy Young and The Innocentsの「ア・サウザンド・スターズA Thousand Stars」だった。
もう速い車もロックンロール音楽もないだろう。今は一分一秒をこの女の子と過ごし、一緒に将来の計画を立てている(これは50年代の子供たちが当時していたことだ)。
ロックンロール・ミュージックの最後の思い出のひとつは、5月の終わり(プロムの後)、フロリダ・スプリングスで彼女と一緒にいたときのことだ。
ジューク・ボックスは何度も何度もファッツ・ドミノFats Dominoのレコード「ナチュラル・ボーン・ラバーNatural Born Lover」を流していた(誰かがこの曲に夢中になっていた)。
私たちは4ヵ月後に別れ、私は自分の悲しい境遇を受け入れてくれるレコード、ディー・クラークDee Clarkの「レインドロップスRaindrops」を聴きながらアメリカ空軍に入ることになる。
1961年末に空軍にいた時、ロックンロールが終わりを迎えた。私にとって、この時が「音楽の死んだ日」だった。私は軍務を終え、帰国して大学に入った。アラン・フリードがニューヨークで「ロックンロール・ミュージック」という言葉を生み出してから57年たった。彼は当時、ロックンロールが将来何度も進化し、変化することを知っていた。この音楽を自分たちのものにするために、私たちが抱いていた情熱と決意を今になって実感する。ロックンロールの誕生は、私たちの世代だったのだ。