アーメット・アーティガンAhmet Ertegun(1926-2006)アトランティック・レコードAtlantic Recordsのオーナー トルコのイスタンブール、
トルコの上流中産階級の家庭に生まれたアーメット・アーティガンは、1935年に家族とともにワシントンDCに移住し、父は新しいトルコ共和国の初代駐米大使であった。9歳のときにアメリカのジャズに興味を持つ。14歳で曲作りと楽器演奏に手を染め始める。父の死後、1944年にセント・ジョンズ・カレッジSt. Johns Collegeを卒業。大学時代にレコード・ビジネスに興味を持つようになった。
1946年、歯科学生でナショナル・レコードNational RecordsのA&Rマンだったハーブ・エイブラムソムHerb Abramsomと出会う。
ふたりは自分たちのレコード・レーベルを立ち上げ、ジャズ、ゴスペル、そしてリズム&ブルースという新しい音楽を専門に扱うことにした。彼らは1947年にニューヨークでアトランティック・レコードAtlantic Recordsを設立し、1949年までに22枚のレコードをリリースしたがどれも売れなかった。
アーメットはあるアーティストとレコード契約を結ぶため、はるばるニューオーリンズまで車で出かけた。そのアーティストは、すでに別のレコード会社と契約していたため、プロフェッサー・ロング・ヘアProfessor Long Hairと名前を変えることに同意した(当時、このようなことは合法だった)。
これらの独立系レコード・レーベルは、黒人アーティストとの契約に関しては非常に積極的で、互いに競争していた(第3章参照)。
アトランティック・レコードの最初のメジャー・リリースは、スティックス・マクギーSticks McGheeの「ドリンキン・ワイン・スポ・ディー・オ・ディーDrinkin’ Wine Spo’ Dee O Dee」だった。
1950年末までには、ルース・ブラウンRuth Brown、ジョー・ターナーJoe Turner、レイ・チャールズRay Charles、クローバーズThe Clovers、クライド・マクファター&ドリフターズClyde McPhatter and The Drifters、コースターズThe Coasters、ロビンズThe Robins、ラバーン・ベイカーLaVern Baker、コーズThe Chords(「シュ・ブームSh-Boom」)、ボビー・ダーリンBobby Darin(ボビー・ダーリン参照)などがいた。
50年代になると、アトランティック・レコードはアメリカ随一のリズム&ブルースのレコード会社であり、リズム&ブルースに高い水準を求めたので、ジェリー・ウェクスラーJerry Wexlerもートナーとして加わった。
例えば、アトランティック・レコードは1957年に初めてステレオ録音を行った。ルース・ブラウンRuth Brown(ブラウン参照)は、リズム&ブルースを歌うことを拒むなら(彼女はポップ・ミュージックへの転向を望んでいた)、他のレコード会社を探すように言われた。
アーメットは独創的なレコード・プロデューサーであっただけでなく、独創的なリズム&ブルースのソングライターでもあり、レイ・チャールズやジョー・ターナーに「チェイン・オブ・ラブChain of Love」、「メス・アラウンドMess Around」、「スウィート・シックスティーンSweet Sixteen」などの曲を提供した。
アーメットはアメリカでリズム&ブルースをプロデュースした最初のパイオニアの一人であり、アトランティック・レコードはRCA、マーキュリーMercury、コロンビアColumbiaといった大手レコード会社に挑戦した最初の独立系レコード会社だった(第3章参照)。
アトランティック・レーベルは、アメリカでリズム&ブルースをプロモートし、プロデュースした最初の独立系レコード会社であり、最終的にロックンロールを誕生させた。アーメットはロックの殿堂入りしている。