リトル・ウィリー・ジョンLittle Willy John(1937-1968)アーカンソー州カレンデール
アーカンソー州カレンデールにウィリアム・エドワード・ジョンWilliam Edward Johnとして生まれたリトル・ウィリー・ジョンは、10人兄弟の1人だった。父親が工場で働くために、一家はミシガン州デトロイトに引っ越した。40年代後半、ウィリーと兄姉はゴスペル・シンガー・グループを結成し、タレント・ショーに出演した。
リトル・ウィリーは、シンガー・ソングライターである「ロール・ウィズ・ミー・ヘンリーRoll with Me Henry」のジョニー・オーティスJohnny Otisに見出され、1955年にキング・レコードKing Recordsに紹介された。
身長が低いので、キング・レコードはウィリーの名前をリトル・ウィリー・ジョンLittle Willy Johnに変えた。
キングでの最初のリリースは「オール・アラウンド・ザ・ワールドAll Around the World」で、リズム&ブルースのチャート5位を記録した。
その後、彼はリズム&ブルースのヒットを連発した。最大のヒットは1956年の「フィーバーFever」という曲で、ビルボード24位を記録したが、すぐにペギー・リーPeggy Lee(白人女性シンガー)にカバーされ、ビルボード8位になった。
リーが「フィーバー」でヒットしたにもかかわらず、リトル・ウィリー・ジョンは100万枚以上のレコードを売り上げ、「フィーバー」でゴールド・レコードを獲得した。ビルボードでは「トーク・トゥ・ミーTalk To Me」がチャート20位、「ハートブレークHeartbreak (It’s Hurtin’ Me)」がチャート38位、「スリープSleep」がチャート13位になるなど、いくつかのヒットを記録した。
1958年から1961年まで、キング・レコードから17曲のリズム&ブルースのトップ・ヒットをリリースしたが、1963年に短気とアルコール中毒のためキングから解雇された。
あるショーの後、男をナイフで刺して過失致死罪で有罪判決を受け、刑務所に送られ、1968年に死去した。史上最高のリズム&ブルース・シンガーのひとりだった。リトル・ウィリー・ジョンはロックンロール誕生の真のパイオニアだった。ロックの殿堂入りをしている。