エタ・ジェイムズEtta James(1938-2012)カリフォルニア州ロサンゼルス
エタ・ジェイムズの本名はジェイムセッタ・ホーキンスJamesetta Hawkinsで、崩壊した家庭に生まれ、生まれた時に母親はわずか14歳だった。母親は様々な男性と関係を持ち、子供の人生に関わることはなかった。エッタは最終的に児童養護制度に預けられ、多くの里親の家を転々とした。ジェイムズはいつも、父親はミネソタ・ファッツMinnesota Fatsというニックネームを持つ有名なビリヤード突きではないかと推測していた。彼女の里親家庭での体験は、時に暴力的で身体虐待的なものであり、ある家では強制的に歌うことを強要された。彼女のボーカル・トレーニングは、主に教会の聖歌隊に参加することから始まった。50年代に入ると、彼女はサンフランシスコで実母と暮らし始めた。
エタはドゥーワップ・ミュージックに興味を持ち、自身のドゥーワップ・グループ 、クレオレッツThe Creolettesを結成した。
やがて彼女は(ステージ・ショーで)ジョニー・オーティスJohnny Otisに出会い、ロサンゼルスのモダン・レコードModern Recordsに紹介された。
モダン・レコードに所属しているとき、ジェイムス&クレオレッツは彼女が共作した「ザ・ウォールフラワー・ソングThe Wallflower Song( Dance With Me Henry)」を歌った。
モダンはこの曲に可能性を感じ、グループ名をエタ・ジェイムズ&ピーチズEtta James and The Peachesに変更し、ジョニー・オーティスに曲のプロデュースを担当させた(モダンはこの曲には若干の手直しが必要だと感じていた)。オーティスは大幅な変更を加え、自分自身が曲に登場してジェイムズとデュエットした。このレコードは1955年のリズム&ブルース・チャートで1位を獲得した。
ジョージア・ギブスGeorgia Gibbs(白人女性シンガー)は、曲名を単に「ダンス・ウィズ・ミー・ヘンリーDance With Me Henry」と変えてカバーしたところ、ビルボード・チャートで1位を獲得した。
エタ・ジェイムズはジャズ、ブルース、ゴスペル、リズム&ブルース、ロックンロールを歌った。ロックン・ロール・アーティストとしての彼女の成功は、1955年と1956年の「グッド・ロッキン・ダディGood Rockin’ Daddy」や「ザ・ウォールフラワー・ソング」といった曲から生まれた。