1957年、アラン・フリードは(ディック・クラークDick Clarkの『アメリカン・バンドスタンドAmerican Bandstand』に対抗するため)WABCテレビのダンス番組『ビッグ・ビートBig Beat』を始める。
1957年7月19日の2回目の番組には、『ティーンエイジャーズ』が出演していた。この番組中に起こったことは、フリードにとって悪夢だった。フランキー・ライモンがテレビカメラの前で白人の女の子と踊ることにしたのだ。南部のABC系列局は信じられないほど憤慨した。ABCのスポンサーは、今後フリードが白人アーティストしか起用しないことに同意すれば、番組の継続を許可するという。フリードは彼らの要求を拒否し、番組は2週間後にキャンセルされた(フリード参照)。
1957年の終わり頃、フリードは1958年3月に全国にわたるロックンロール・ショーを始めると発表し、ティーンエイジャーズもロックンロール・アーティストのラインナップの一部として加わることになった。「恋は曲者」の3ヵ月後、ティーンエイジャーズは 「アイ・ウォント・ユー・トゥ・ビー・マイ・ガールI Want You To Be My Girl 」をリリースし、ビルボードで13位を獲得し、この曲もアメリカのティーンエイジャーの間で流行した。
このリリース後、ティーンエイジャーズは「フランキー・ライモン&ティーンエイジャーズFrankie Lymon and The Teenagers」に改名した。続いて1956年5月に「アイ・プロミス・トゥ・リメンバーI Promise To Remember」を発表。
オリジナルはジミー・キャスター&ジュニアーズJimmy Caster and The Juniorsによるもので、ジー・レコードGee Recordsはキャスターのレコードより(次にリリースされることになっていた「ABCズ・オブ・ラブ ABC’s Of Love」の)前にこの曲をリリースさせ、ビルボード33位にチャートインさせた。
この「ABCズ・オブ・ラブ」はビルボード42位となり、グループとしてチャートされた最後のヒットとなった。
1956年末には、フランキー・ライモン&ティーンエイジャーズは全米で最も人気のあるロックンロール・レコーディング・アーティストになっていた。フランキー・ライモン&ティーンエイジャーズは1956年にもう1枚、「アイム・ノット・ア・ジューブナイル・デリンクエントI’m Not A Juvenile Delinquent」とB面「ベイビー・ベイビーBaby, Baby」をリリースする。
彼らは数ヵ月後、アラン・フリードの映画『ロック、ロック、ロックRock, Rock, Rock』で「A」面を演奏した。