ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツBill Haley and His Comets(1925-1981)ミシガン州ハイランドパーク
ウィリアム・ジョン・クリフトン・ヘイリーWilliam John Clifton Haleyは才能豊かな音楽一家に生まれた。ヘイリーは13歳で自分のバンドを結成。1940年、彼はシンガー/ミュージシャンとして成功するために家を出た。この業界では浮き沈みが激しかったが、40年代にはカントリー・ウエスタンのシンガーとして成功を収めた。ラジオ局の音楽ディレクターになる一方、「サドル・メンThe Saddle Men」として知られるようになった彼のバンドとともに、フィラデルフィア周辺のクラブでウェスタン・スウィング・ミュージックを専門に演奏し続けた。
彼とサドル・メンは1951年にレコード契約を結ぶ。
1953年、彼は名前をビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツBill Haley and His Cometsに変えた。新しい名前での最初のレコードは「クレージー・マン・クレイジーCrazy Man Crazy」だった。
この曲はキャッシュ・ボックスCash Boxで15位と11位を記録した。1954年、ヘイリーは「ロック・アラウンド・ザ・クロックRock Around the Clock」と「シェイク・ラトル・アンド・ロールShake, Rattle, and Roll」の2曲をレコーディング(別々のレコード)。
「ロック・アラウンド・ザ・クロック」はチャートに入らなかった。「シェイク・ラトル・アンド・ロール」は黒人アーティスト、ビッグ・ジョー・ターナーBig Joe Turnerの曲のカバー・レコードだった。
この曲はヘイリーにとってミリオンセラーとなり、ゴールド・レコードとなった。1954年、大手レコード会社がリズム&ブルース・アーティストをカバー・レコード(黒人音楽の搾取)として録音する典型だった。1955年にヘイリーの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」がビルボードのチャート1位になったのだが(この年に映画が始まった)、映画『ブラックボード・ジャングルBlackboard Jungle』の冒頭部分に組み込まれた(監督が封切り直前に決定した)からだ。この映画のおかげで、このレコードは2,500万枚を売り上げることになる。
50年代はチャート入りしたヒット曲が続く。 「シー・ユー・レイター・アリゲーターSee You Later Alligator」チャート6位(1956年)、「ディム・ディム・ザ・ライツDim, Dim the Lights」チャート11位(1954年)、
「バーン・ザット・キャンドルBurn That Candle」チャート9位(1955年)、「R-O-C-K」チャート16位(1956年)。
ヘイリーは、アラン・フリードAlan Freedの映画『ロック・アラウンド・ザ・クロックRock Around the Clock』と『ドント・ノック・ザ・ロックDon’t Knock the Rock』に出演した。
ヘイリーがウェスタン・スウィングからロックンロールに転向したことははっきりしている。一方で、彼がロカビリー音楽のパイオニアだったとは全く言われていない(ロカビリー・アーティストは南部から出てきた)。長い間、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は最初のロックンロール・レコードと呼ばれてきた。ロックンロールの誕生(1955年1月15日)の1年前、1954年に発表されたこの曲について、それを論証するのは難しい。ヘイリーは、ビルボードで1位を獲得した最初のロックンロール・レコード(ロック・アラウンド・ザ・クロック)を出したことで、ロックンロールの誕生に足跡を残した。
彼はロックの殿堂入りしている。