ジェリー・リー・ルイスJerry Lee Lewis(1935-現在)ルイジアナ州フェリデイ
ジェリー・リー・ルイスは信心深い家庭で育った。両親は幼い彼にピアノを買い与えた。10代の頃はラジオで黒人音楽(リズム&ブルース)を聴き、自宅から道を隔てた向かいの黒人クラブで黒人音楽を学んだ。ある日曜日、リズム&ブルースのようなゴスペル・ソングを歌い演奏したため、教会から追い出された。ルイスの両親は、彼が宗教的な音楽を歌い、ピアノで弾くようになることを期待して、宗教大学に行かせた。それは叶わず、彼は故郷に戻り、自宅周辺やミシシッピのクラブでロックンロール・ミュージックを演奏し始めた。
ナッシュビルでのレコーディングを試みたが、50年代半ばのナッシュビルには彼の音楽は受け入れられなかった。テネシー州メンフィスに行き、サン・レコードSun Recordsのオーディションを受けた(おそらく、エルビスがそこで成功したからだろう)。
サム・フィリップスSam Phillipsは彼をサン・レーベルのソロ・アーティスト兼バック・ミュージシャンとして雇った。
ジェリーのピアノは、ジョニー・キャッシュJohnny Cashやカール・パーキンスCarl Perkinsのレコードの多くで聴くことができる。
1957年、ルイスはサン・レコードで「ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オンWhole Lotta Shakin’ Goin’ On」と「火の玉ロックGreat Balls Of Fire」の2曲(別々のレコード)をレコーディングした。
RCAレコードは1955年にプレスリーの契約金をサム・フィリップスに支払っており、サムはジョニー・キャッシュJohnny Cash、カール・パーキンスCarl Perkins、ロイ・オービソンRoy Orbison、そしてジェリー・リー・ルイスJerry Lee Lewisのプロモーション資金を手に入れた。
1957年、ルイスの曲はビルボードで2位と3位を獲得したが、いくら有名になっても全米の多くのラジオ局は彼の曲をボイコットした(性的な歌詞が多過ぎたのだ)。今度は、全米からショーやテレビのバラエティ番組への出演依頼が増加した。
1957年、ジェリー・リー・ルイスはフロリダ州デイトナビーチのピーボディ・オーディトリアムthe Peabody Auditoriumにやってきた。
その夜、私は最も前の10列の一角にいた。髪の毛が目にかかり、片手に小さなスツールを抱えてステージに上がって、ピアノの前に座った。すぐに観客の前で「ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オン」を歌い始めた。曲の途中でルイスは立ち上がり、スツールを激しく蹴ったのでステージの向こうに飛んで行った。その夜のデイトナ・ビーチでの忘れられない出来事だった。ルイスはとんでもないエンターテイナーだった。彼はロックンロール界で「キラー」として知られるようになる。「ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オン」は国会図書館the Library of Congressの全米録音資料登録簿the National Recording Registryに登録されている。彼の最後のトップ10ヒットは1958年の「ブレスレスBreathless」で、チャート7位だった。
彼の私生活はそれほど素晴らしいものではなかった。7回結婚しており、そのうちの1回目は13歳の従妹との結婚だった。彼女をイギリスに連れて行き(ハネムーン)、花嫁と一緒に到着したときに国外追放された。ディック・クラークDick Clarkは彼をアメリカン・バンド・スタンドAmerican Band Standに出演させることを拒否した。
彼の曲のうち2曲はハリウッド映画にもなっている。ロカビリーとロックンロール誕生の初期のパイオニアである。ロックの殿堂とロカビリーの殿堂入りをしている。