ポール・サイモンPaul Simon(1941-現在)ニューヨーク、ブルックリン
ポール・サイモンは、ロックンロール誕生の時代にブリル・ビルで最も売れず、最も無名のシンガー・ソングライターだった。
曲作りに関しては天才と評され、ワールド・ミュージック、特にアフリカ音楽の普及に尽力した事実とは好対照だ。1957年から1964年の間に30以上の曲を書き、レコーディングし、リリースした。ジェリー・ランディスJerry Landis、トゥルー・テイラーTrue Taylor、ポール・ケインPaul Kaneといった様々な名前を使い、ソロ・アーティストとして多くの曲をレコーディングした。
いくつかのドゥーワップ・グループ(ミスティックスThe Mystics、ティコ&トライアンフスTico and The Triumphs)のメンバーでもあり、長年の友人であるアート・ガーファンクルArt Garfunkel(トムとジェリーTom and Jerry)とレコードもリリースし、アートがアート・ガーArt Garrとしてリリースするレコードの曲を書いた。
トムとジェリーとして、この二人の友人は、ポールが書いた15曲をレコーディングした。「ヘイ・リトル・スクール・ガールHey Little School Girl」はビルボード・チャートで49位を記録した。
アート・ガーファンクルはポールが書いた8曲をレコーディングした。ジェリー・ランディス(ポール・サイモン)は自作の13曲を録音した。
ポールはドゥーワップ・グループ、ミスティックスと3曲をレコーディングし、ヒットした(「ハッシャバイHush-a-Bye」)。
ドゥーワップ・グループ、ティコ&トライアンフと共に10曲をレコーディング。ポールがティコ&トライアンフスのために書いた「モーターサイクルズMotorcycles」はビルボード・チャートで97位を記録した。
ポール・ケイン、トゥルー・テイラーとして、6曲作り、レコーディングした。3曲はジェリー・ランディス名義だった。ポールは「ザ・ローン・ティーン・ストレンジャーThe Lone Teen Stranger」でビルボード・チャート99位というマイナー・ヒットを出した。
彼が初めて書いた曲「ザ・ガール・フォー・ミーThe Girl for Me」は12歳の時だった。高校時代に友人のキャロル・キングとデモ曲を録音し、後にドゥーワップ・グループの友人に渡した(キャロル・キングを参照)。
ポール・サイモンは1957年から1963年の間に全部で66曲書いたが、いずれもビルボード・チャートで大したヒットにはならなかった。
1966年、ポール・サイモンが書いてアート・ガーファンクルと一緒にレコーディングし、ビルボード・チャートで1位を獲得したのは3曲だ。「サウンド・オブ・サイレンスSounds Of Silence」、「ミセス・ロビンソンMrs. Robinson」、「明日に架ける橋Bridge Over Troubled Waters」であり、ポール・サイモンは偉大なシンガー・ソングライターへの道を順調に歩んでいた。
彼はロックの殿堂とソングライターの殿堂入りしている。