ボビー・ダーリンBobby Darin(1936~1973)ニューヨーク州ブロンクス
ウォルデン・ロバート・カソットとして生まれたボビーは、貧しい労働者階級のイタリア系アメリカ人の家庭に生まれた。父親(実際は祖父)は、ボビーが生まれる前に刑務所で亡くなっている。当時は世界大恐慌の真っ只中で、彼は機能不全に陥った家庭の生まれと言える。生涯のほとんどに母親と呼んでいたのは、実際には祖母だった。姉が本当の母親だった。祖母のポリーPollyはモルヒネ中毒だった。ダーリンは生まれつき重い病気(リウマチ熱)を患っており、心臓が非常に弱かった。医師たちはボビーが16歳になる前に死ぬ可能性が高いと家族に告げた。このことは、彼の生き方に大きな影響を与え、急き立てられるようにソングライター、歌手、俳優となり成功した。病気のせいで、家族はボビーを過保護にし、大人扱いした(ニューヨーク中の大人の娯楽施設に連れて行った)ため、幼少期がなかった。
10代になる頃には、ピアノ、ドラム、ギター、ハーモニカ、シロフォンなどいくつかの楽器を演奏できるようになっていた。ダーリンは非常に優秀で、名門ブロンクス科学高校Bronx High School of Sciencesを卒業し、奨学金を得てハンター・カレッジHunter Collegeに入学した。
音楽の道に進みたかった彼は大学を中退し、ニューヨーク中のナイトクラブで演奏し始めた。人気のキャッツキル山地リゾート地でエンターテイナーとして過ごしたこともあった。ここでボビー・ダーリンと改名した。
1955年、ブロンクス・サイエンス高校で一緒だったドン・カーシュナーDon Kirshnerとソングライティングのパートナーシップを組む。
1956年、デッカ・レコードDecca Recordsとの契約を申し込まれた。また、ブリル・ビルディングのソングライターとなり、コニー・フランシスConnie Francisと出会い、「マイ・ファースト・リアル・ラブMy First Real Love」(ダーリン/カーシュナーDarin/Kirshner)など、彼女のために何曲か曲を書いて歌手としてのキャリアの後押しをし、ふたりは恋愛関係に発展したが、彼女の父親がそれを止めた。
ダーリンはリズム&ブルースに興味を持ち、アポロ・シアターthe Apollo Theaterに黒人アーティストをよく観に行った。
デッカ・レコードでリッドベリーLeadbellyの「ロック・アイランド・ラインRock Island Line」を録音した。
デッカ・レコードでレコーディングする一方で、ドーシー・ブラザーズ・ショーに出演したが、デッカ・レコードのレコードは売れなかった。
失望した彼はデッカを去り、1957年にアトランティックAtlantic(ATCO)・レコードにアレンジャー、ソングライター、シンガーとして移籍した。「ラブ・ミー・ライトLove Me Right」を書き、ラバーン・ベイカーLaVern Bakerが録音した。
「ディス・リトル・ガールズ・ゴーン・ロッキンThis Little Girl’s Gone Rockin’」を書き、ルース・ブラウンRuth Brownが録音した。
ディング・ドングスThe Ding Dongsというドゥーワップ・グループを結成し、「アーリー・イン・ザ・モーニングEarly in the Morning」(ほかに3曲)を書いた。ディング・ドングスはATCOレーベルからこのレコードをリリース。
このレコードはATCOでのチャートインせず、彼はこの曲をブランズウィック・レコードThe Ding Dongs(アトランティック・レコードとまだ契約中にもかかわらず)に持ち込み、レコーディングを申し出た。ブランズウィックにATCOでのレコードのことは話さなかった。