クックは1957年にもラブ・バラード「アイ・ラブ・ユー・フォー・センチメンタル・リーズンI Love You for Sentimental Reasons」を書き、レコーディングする。
これにより、サム・クックはアメリカにおける大物コマーシャル・ポップ・アーティストとしての地位を確立した。スペシャルティ・レコードはこの曲の権利を主張した(彼はスペシャルティとの契約中にこの曲を書いた)が、クックは兄がこの曲を書いたと主張した(事実ではない可能性が高い)。クックはキーン・レコードで「エブリバディ・ライクス・トゥ・チャ・チャ・チャEveryone Likes to Cha Cha Cha」、「オンリー・シックスティーンOnly Sixteen」、「ウィン・ユア・ラブ・フォー・ミーWin Your Love For Me」、「ワンダフル・ワールド(What A) Wonderful World」などの曲を書き、1960年にRCAレコードに移籍した。
クックは聡明で、アメリカの白人ティーンエイジャーに曲を書けば儲かることに気づいていた。キーンでの最後のレコードは、ティーンエイジャーの行動を歌ったミリオンセラー「ワンダフル・ワールド」だった。
クックがRCAレコードから初めてリリースしたのは、彼が書いた別の曲「ノーバディ・ラブズ・ミー・ライク・ユーNobody Loves Me Like You」で、フラミンゴズThe Flamingosがレコード化してヒットした。
クックは当時結婚しており、1週間前の1960年1月6日に最初の子供が生まれた。「チェイン・ギャングChain Gang」を作曲、レコーディングし、ビルボード2位、自身4枚目のゴールド・レコードとなった。
その後10ヶ月の間に、ビルボード17位の「キューピッドCupid」など4曲書き、レコーディングした。
1962年は、サム・クックが作曲した「ツイストで踊りあかそうTwistin’ the Night Away」、「ハビング・ア・パーティーHaving A Party」、「ブリング・イット・オン・ホーム・トゥ・ミーBring It On Home To Me」で、クックとRCAにとって素晴らしい年となる。
彼は亡くなるまでに46曲をレコーディングし、9枚のアルバムを残した。