サムはどうしてももっとお金が欲しかったが、グループはそれを変えようとはしなかった。
「ラバブルLovable」がグループの売上を減少させていると感じたので、グループはループに電報を送って、これ以上デール・クックDale Cookeのレコードを発売しないように頼んだ。
苦境に陥ったサムは、信頼できる相談相手と考え始めていたJWアレクサンダーJ.W. Alexanderと話した。
J.W.はこの先何年もサムの心に残るであろう明確で感傷的でない見通しを持っていたが、それは、ソウル・スターラーズThe Soul Stirrersは自分たちよりも大きな文化的勢力と戦っていて、ソウル・スターラーズとピルグリム・トラベラーズThe Pilgrim Travelersはあまり長く存続できないことを悟っていた。
両グループが出演したプログラムの後に夕食をとりながら、スターとしての仮面を脱ぎ捨て、多少おずおずと、自分が世俗のシンガーとして成功できるかどうかを尋ねた。JWはサムに、デール・クックの仮面を忘れ、本来のサムにならなければならないが、もちろん、成功すると言った。そこで1957年5月28日、サムは友人の車に乗ってシカゴ空港に向かい、ロサンゼルス行きの飛行機に乗った。サムはわざわざソウル・スターラーズに辞めるとは言わなかったが、現に辞めてしまった。
ロサンジェルスでは、バンプスBumpls Blackwellは忙しかった。
バンプスがスペシャルティ・レコードSpecialty recordsにいる時間は限られていて、サムに金を払って縁を切る方法を見つけ出す準備をしながら、ループArt Rupeはサムの未発売の素材をすべてバンプスに渡した。
バンプスは、自分の才能を活かせる別の会社を探していると公言し、有望な新興企業を見つけることができた。キーン・レコードKeen Recordsは、飛行機部品を製造する会社のギリシャ系アメリカ人ジョン・シアマスJohn Siamasが出資した会社で、その運営は若いクラリネット奏者ボブ・キーンBob Keeneに任されていた。
キーンはバンプスが会社を探していることを聞き、もっと重要なことはバンプスがサム・クックを連れて来るということなので、詳細を詰め始めるために、バンプス、JWアレクサンダーJ.W. Alexanderとの会談を設定した。その間に、サムはゴスペルシンガーたちにあまり知識のないロサンジェルスを知るようになり、まだ活気のあるセントラル・アベニューを紹介してくれた数人の若者たちとうろついたり、ハリウッドの店ドルフィンDolphinによく行ったが、そこは24時間営業の有名レコード店で、DJ達がウインドウの中にいてラジオのライブで音楽をかけ、葉巻をかじる丸々とした黒人のジョン・ドルフィンJohn Dolphinというオーナーが経営していた。
(ここはLAの多くの白人ティーネイジャーがR&Bレコードを買う店で、この店がハリウッドから遠い場所にあることを承知していたが、黒人はハリウッドに入ることを許されなかったので、彼自身のエンターテインメントの中心地を作ろうと考え、レコード会社の名前をレコーディッド・イン・ハリウッドRecorded in Hollywoodと呼んだ。)
サムはバンプスのためにもう数局レコーディングし、9月7日、キーン・レコードKeen recordsからサムの最初のレコード、「サマー・タイムSummertime」、B面は「ユー・センド・ミーYou Send Me」が発売され、そのマスターはループがバンプスに渡した。
B面とされている方がヒットするとラジオが判断すると、そのとたんヒットし、かつてびくびくしながら出してみた世俗的な曲よりも良く売れたので、ゴスペル界から軽蔑の波にさらされることとなった。しかしこれはキーン・レコードKeen records(そしてキーンKeene records)にとって素晴らしいスタートで、バンプスはスペシャルティ・レコードの他のゴスペル演奏者に、ループは業績が良くなく、もし移籍を考えているなら、新しいレーベルに安息の場を見つけられるかもしれないと、ささやいた。