レコードは1955年10月にリリースされた。「トゥッティ・フルッティ」は、1956年のリズム&ブルース・チャートで2位、ビルボード・チャートで17位を記録。彼はさらに17曲のヒットを放ち、3曲がリズム&ブルース・チャートで1位を獲得している。リチャードは1956年に「ロング・トール・サリーLong Tall Sally」でビルボード6位、
「リップ・イット・アップRip It Up」で同年17位、
「スリップン・アンド・スライディンSlippin’ And Slidin’ (Peepin’ And Hidin’)」で同年33位、
「ルシールLucille」で1957年21位、
「キープ・ア・ノッキンKeep A Knockin’」で同年8位、
「グッド・ゴリー・ミス・モリーGood Golly Miss Molly」で1958年10位、
「オー・ミス・ソウルOoh! My Soul」で同年31位を獲得した。
パット・ブーンとエルビス・プレスリーは、1956年に彼の「トゥッティ・フルッティ」をカバーした。
ブーンのレコード売り上げは1956年にリチャードのレコードを上回った(最後のカバー・レコードがオリジナルの黒人レコードを上回るのは、この1年後だ)。プレスリーのカバーはリチャードのレコード売り上げを上回らなかった。プレスリーとビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツBill Haley and His Cometsは1956年にリチャードのレコード「リップ・イット・アップ」をカバーするが、リトル・リチャードのレコードはプレスリーとヘイリー両方のレコード売上を上回った。
リトル・リチャードは、全米各地で開催された彼のライブで、人種を一緒にすることに大きな影響を与えた。50年代半ば、ほとんどの公共施設は白人と黒人を分けていた。彼のライブでは、黒人はバルコニー席、白人はフロア席に案内された。ショーが終わるころには、白人も黒人も一緒になってショーを楽しんでいた。リズム&ブルースのショーをめぐって南部が最も憤慨していたのは、「黒人差別法Jim Crow Laws」のせいだったようだ。北アラバマ白人市民会議North Alabama White Citizens Councilはテレビや新聞で、「ロックンロール・ミュージックはわが国の若者のモラルを破壊し、『セクシュアルかつ不道徳で、両人種の統合をもたらす』」という声明を発表し始めた。