4-11.バーバラ・アンBarbara-Ann-リージェンツThe Regents(フレッド・ファサート)
61年3月カズンズCousinsのシングルとして発売、61年4月ジーGeeのシングルとして再発売:R&B7位、ポップ13位
もし、ディオンとベルモンツDion & The Belmontsが1958年にホワイト・ドゥーワップ・グループ現象を大いにもたらしたならば、地元のブロンクス区にいる意欲のあるティーネージャーにとって、さらに多くの事を成した。
ディオンや少年たちが先導した後、50年代後半から60年代前半にかけて、どれだけ多くのイタリア系アメリカ人が結成されたかを正確に数えることはできないが、その数は指数関数的に表さなければならないかもしれない。そのようなグループの一つがリージェンツThe Regentsで、その複雑な物語はある程度当時の典型だった。
1958年に、後にヒット・アーティストでプロデューサーとなるオリジナル・メンバーのアーニー・マレスカErnie Marescaと一緒に結成され、このグループは1958年後半にウォーミング・アップ用の曲として使うために10分で書き上げた曲――「バーバラ・アン」――のデモ盤を、今は忘れられたバラードとともに録音した。
これらの曲を当時たくさんのレーベルに売り歩く努力をしたがムダで、グループはリリースせずに解散した。「バーバラ・アン」はお蔵入りとなって、ほこりをかぶっていた。
さあ、一足飛びに3年後の1961年になると、ホワイト・ボーカル・グループ・サウンドが再びはやり始めた。リージェンツのメンバーの兄弟の一人を通して手に入れたオリジナルのリージェンツのレコードを、ローカルなブロンクスのグループのコンソーツThe Consortsが聞いた後、「バーバラ・アン」のデモ盤を録することに決めたが、その兄弟というのがその時までにコンソーツと一緒に歌っていた(混乱したかな?)地方の電気製品とレコードのお店のオーナーのルー・チケッティLou Cicchettiが、コンソーツのデモ盤を聞いて、自分の小さなレーベルであるカズンズCousins(お店の名前にちなんだ)から発売することを考えた。
リージェンツのチャック・ファサートChuck Fassertの兄弟で、この曲を書いたフレッド・ファサートFred Fassertはこのことを聞きつけ、もっと良い質のリージェントのレコードをチケッティの所に持ち込むと、リージェント盤を代わりにカズンズから発売することにした。
しかし、ちょっとした問題があったのだが、それは、許容範囲にあるB面がなく、何か他の曲をレコーディングする前にグループが解散してしまった。グループの何人(リード・シンガーのビラリVillari以外)かが友人2人を加入させて、すぐに別の曲、「アイム・ソー・ロンリーI’m So Lonely」を録音し、「バーバラ・アン」のレコードが実現した。
レコードはリリースするとすぐ、爆発的に売れて、モーリス・レビーMorris Levyのルーレット・レーベルRoulette labelの経営がすぐに入って来て、チケッティから買い取って、子会社のジー・レコードから再発行した。
この曲のつっかえたようなイントロはこの時代にぴったりで、白人と黒人の両方の中で同じように売れ、最終的にトップ20に入った。グループはそれから急いでスタディオに入ってLPを制作したが、そのカバー・ジャケットの写真は、グラフィック・アート市場最悪の一つだった。
「ランアランドRunaround」もまたクラッシクで楽しいネオ・ドゥーワップで、「バーバラ・アン」の後を追ってポップ・チャートの上位に上ったが、リージェンツは仲間割れした。
しかし5年後に、ビーチ・ボーイズThe Beach Boysというカリフォルニアのサーファー風グループが、ライブ・パーティーのアルバムでこの曲を再現して、数か月後にシングルとしてリリースすると、これもビッグ・ヒットになった。
良い曲というのは、押さえつけたままにしておくことができないものだ。