3-15.シックスティーン・キャンドルズ16 Candles-クレスツThe Crests(ルーサー・ディクソンLuther Dixon、アリソン・ケントAllyson Khent)
58年8月12日録音、58年10月コードCoedのシングルとして発売:R&B4位、ポップ2位
ドゥーワップと同じくらい『古い』話だが、しばしば混乱している90年代の今日、音楽が『非差別的』と考えられていたと知ることは、ちょっと驚き(であり喜び)である――ドゥーワップは、ほら、比較的人種の違いを意識しない。この関連で、一つの楽しい例がクレスツで、黒人、白人、スペイン人のグループをシンガーのジョニー・マエストロJohnny Maestroが率いた。
マンハッタン南西部にある主に黒人地域でわずかしかいない白人の子の一人であるマエストロが、1957年に異人種間のクレスツを結成し、地下鉄に乗って歌っているときにレコード・アレンジャーの妻に会った後、すぐにグループとともにレコーディング・スタディオの入って、ブルックリンのちっぽけなジョイス・レーベルJoyce labelでファースト・シングルの「マイ・ジャニータMy Juanita」を録音し、裏面は「スイーテスト・ワンSweetest One」だった。
「マイ・ジャニータ」は、長い年月をかけて両面のうちでより人気の曲(このボックス・セットの最後の曲として聴けるように、今日までマエストロと彼のグループが演奏した)になったが、この年、実際にトップ100の下位に入ったのはバラードの「スイーテスト・ワン」だった。
2枚目のシングルがジョイスでヒットしなかった後、グループ――オリジナルの女性メンバーで後にR&Bのスターとなるルーサー・バンドロスLuther Vandrossの姉妹のパトリシア・バン・ドロスPatricia Vandross――が欠けた――は興行師のジョージ・パクストンGeorge Paxtonのコード・レーベルCoed labelの所に行き、立て続けにヒット曲をリリースし、長年にわたって会社を支えた。
マイナー・ヒット(「プリティ・リトル・エンジェルPretty Little Angel」をリリースした後に、「シックスティーン・キャンドルズ16Candles」を、続けて「シックス・ナイツ・ア・ウィークSix Nights A Week」、
「ザ・エンジェルズ・リッスンドゥ・インThe Angels Listened In」、「ステップ・バイ・ステップStep By Step」、「トラブル・イン・パラダイスTrouble In Paradise」などを出した。
マエストロは続いて60年代初めにソロ・ヒットのレコードを数枚出し、1967年に既に確立されたボーカル・グループのデル・サテンズThe Del Satinsや、リズム・メソッドThe Rhythm Methodというロックンロール・バンドと一緒に、次のヒット・メイキングのグループであるブルックリン・ブリッジThe Brooklyn Bridgeを結成した。
「シックスティーン・キャンドルズ」は、1950年代の本質をハリウッド(そしてテレビ)がどうとらえているかを象徴するようになる、数少ない曲の一つだ。それは言い過ぎかもしれない――その10年間はそれほど単純ではなかった――が、社会学的なかかわりがどうであれ、この曲はロックンロール(そしてドゥーワップ)の名曲として残ることには疑いがない。