2-23.ベイビー・オー・ベイビーBaby Oh Baby-シェルズThe Shells(ヒラム・ジョーンソンHiram Johnson、ナサニエル・ボークナイトNathaniel Bauknight、ウォルター・コールマンWalter Coleman)
57年7月ジョンソンJohnsonのシングルとして発売、60年11月再発売:ポップ21位
レコード・コレクターは批評家のように、音痴で欲求不満の熱狂的ファンに過ぎないなんて誰が言ったのか?私は言わないし、シェルズも確かに言わないのは、もしレコード・コレクター(たまたまこの小冊子の何項目かを書いている)が数人いなければ、彼らの1曲のビッグ・ヒットがまた無名の曲となり、完璧主義のレコード・コレクターが追いかけまわすことになっただろうからだ。物語はニューヨークで起こる羽目になった。言い伝えによると、シェルズは1957年にジョンソン・レコードJohnson Recordsにおける、ダブスThe Dubsのレコーディング・セッションの間にスタディオに連れてこられた。
何かを録音するための時間を20分与えられて、彼らは「ベイビー・オー・ベイビー」を考え出し、その夏にリリースした後、少し放送されたが実際には売れなかった。もう1枚レコードを出した後、グループは解散した。
「ラマ・ラマ・ディング・ドングRama Lama Ding Dong」と同じように、この曲をしばらくしてから再び放送させるようにしたのは、二人のコレクターである、ドン・フィレティDonn Filetiとウェイン・スティアールWayne Stierleの努力だった。
この二人のティーネージャーは、この曲のとりこになり、シングル・レコードをさらに何枚か手に入れようと努力して、1960年にジョンソン・レコードの遺物を積極的に探しに行った。(この小冊子のどこかに語られていた話だが、タイムズ・スクエア・レコードTimes Square Recordsの合うリムに売ることのできるだろう。)
それを実行した後、ニューヨークのディス・クジョッキーのカズン・ブルーシーCousin Brucieと、追い出されてロサンジェルスにいるがこのレコードに飛びついて、どんどん放送して全国的に注目を集め、ポップ・チャートで再集積に21位になった—―もともと録音されてリリースされてから3年後だった!フィレティとスティアールはこのプロジェクトで金持にはならなかった(レコード業界の経験を生かさないと元は取れない)が、シェルズは再結成してもう数年(スティアールがプロデュースして)レコーディングを続け、様々な成功を手にした。
どこでどうやってこのレコードがヒットしたかにかかわらず、「ベイビー・オー・ベイビー」は典型的な『ニューヨーク・サウンド』であり、背景に粗削りだが効果的なビートをきたした、純朴さと10代の楽観がある。