1-15.シンシアリーSincerely-ムーングロウズThe Moonglows(ハービー・フクアHarvey Fuqua、アラン・フリードAlan Freed)
54年10月チェスChessのシングルとして発売:R&B1位、ポップ20位
この名曲集を通じて、たくさんのティーネージ・グループを聴いたり読んだりするのだが、彼らは真剣に音楽のキャリアを伝えるというよりは、女の子の観客の注目を集めるために、一瞬の栄光を求めて歌い、そしてさらにレコーディングしようとして結集した。ムーングロウズThe Moonglows(そして、とりわけフラミンゴスThe Flamingos)は真逆で、ヤング・アダルトで構成されたプロのキャリア志向の歌唱集団だった。
グループの中核はリード・シンガーのボビー・レスターBobby Lesterとバリトンのハービー・フクアHarvey Fuquaで、二人とも、最初に一緒に歌い始めたケンタッキー州ルイスビルからクリーブランドにやって来た。いったんクリーブランドに入るとさらに3人のシンガーをかき集めてクレージー・サウンズThe Crazy Soundsと自分たちを名乗り、地元のクラブでジャズ・ポップ・グループのようなものとして演奏した。1952年後半にDJのアラン・フリードAlan Freedの関心を引いて(電話越しに彼のオーディションを受け)、彼がその時に正に彼らのために作ったレーベル、シャンパーニュ・レコードChampagne Recordsで2曲レコーディングして、クリーブランド地域の辺りで演奏を続けた。
1953年までに、彼らのボーカル・スタイルは、何か新しいものにちょうど具体化し始めたが、これは、マイナーコード、メジャーセブンスコード、フラットフィフスコードであり、『ブロウ・ハーモニー』として知られるようになった独特な使い方だ。クリーブランドでの物事の進め方に耐え切れず、グループはシカゴに行ってチャンス・レコードChance Recordsと契約し、そこで素晴らしいシングルの曲を数曲録音した。
印税が直ぐに支払われないということが明らかになったので、数ブロック向こうのチェス・レコードChess Recordsに歩いて行って契約を交わした。チェスで彼らが最初にリリースした曲こそ、『トレードマーク』になったフクアFuquaの「シンシアリーSincerely」だった。友情の印、あるいは、その時代のレコードとラジオ業界の現実に屈服して、アラン・フリードの音楽に関する貢献は不透明だったが、グループは彼に共同作曲のクレジットを与えた。
マクガイヤー・シスターズは白人市場向けにこの曲をカバーしたが、ムーングロウズのバージョンも独自によく売れ、R&Bチャートのトップになり、競合相手がいるにもかかわらずポップのトップ20に入った。
その後、このグループは延々と素晴らしいシングルをチェスChessから出したが、最も顕著なのは、「シー・ソーSee Saw」、「モスト・オブ・オールMost Of All」、「イン・マイ・ダイアリーIn My Diary」、「オーバー・アンド・オーバー・アゲインOver And Over Again」、「プリーズ・センド・ミー・サムワン・トゥ・ラブPlease Send Me Someone To Love」で、最後が「ザ・テン・コマンドメンツ・オブ・ラブThe Ten Commandments Of Love」だ。
チェスは大いに関心してボビー・レスターBobby Lesterにサイド・グループとしてムーンライターズThe Moonlightersを結成させてやり、子会社のチェッカー・レーベルChecker labelで数多くの曲をリリースさせた。
1960年までにムーングロウズは解散し、ハービー・フクアはデトロイトに移って妻(モータウンMotown創立者のベリー・ゴーディBerry Gordyの姉妹)と一緒にトリフィ・レーベルTri-Phi labelを設立し、そこで、1970年代に最も成功するボーカル・グループスピナーズThe Spinnersをとなるグループを見い出した。
レスター、フクアなどが70年代初めに、1972年にレスターが悲劇的になくなるまで、続いていたリバイバルのために短期間再結成した。