スリムのちっぽけな店(15人も中に入ると一杯になる)から出た物語がビルボード誌に載り、全国チャート・ヒットもいくつか出た。エドセルズThe Edselsの大ヒット「ラマラマ・ディン・ドンRama Lama Ding Dong」、カプリスTha Caprisの「There’s a Moon Out Tonight」、シェルズThe Shellsの「ベイビー・オー・ベイビーBaby Oh Baby」は、スリムと彼の若いサプライヤーたちが、いぶかしがり嫌がっていたレコード・レーベルにお願いして忘れられていたドゥーワップの名曲を再発行してもらった後に、全国的に有名になった。
全盛期の初めには、毎週2千枚のグループの45回転盤――1曲1ドル――を店頭で販売できた。筋金入りのコレクターである、ブルックリンのドムDom、ブロンクスのルイLouieは、タイムリー・レコードTimely recordsのゲイチューンズThe Gaytunes、ルナLunaレコードのクリスタルズThe Crystalsのために10ドル以上支払ったが、僕たちのほとんどは、パラゴンズThe Paragons、チャネルズThe Channels、デルズThe Dellsで満足していた。
スリムは先見の明があって自分自身のレコード・レーベルを設立し、ニューヨークで史上最高のドゥーワップである、タイムトーンズThe Timetonesの「ヒア・イン・マイ・ハートHere In My Heart」で始めた。
多くの若い顧客は、お気に入りの曲(ドゥーワップは過去も現在も男を結びつけるものだ)に合わせてハーモナイズするのが好きだということを鋭く観察していたので、厳密なア・カペラ(すべてが声で楽器は無し)45回転盤をリリースし始めた。ジュビリーレコードJubilee recordsのファイブ・ステップスThe Five Sharpsの「ストーミー・ウェザーStormy Weatherを持ってきたら、その幸運な人間には週を重ねるごとに金額を増やすという彼自身の伝説を作ったが、結局誰も持って来ず、45回転盤は見つからなかった。(しかし、過去30年以上の間に壊れた78回転盤が3枚出てきた。)
60年代初期におけるティーネージャーのドゥーワップ礼賛はたちまち大きくなった。ジャレッド・ワインスタインJared Weinsteinとジェリー・グリーンJerry Greeneはニューヨークを逃れてフィラデルフィアに向かい、チェストナット・ストリートにレコード博物館Record Museumを開いた。
エディ・グライスEddie Griesは、1962年、ハッケンサックにある橋の反対側に、スリムのお店そっくりのレリック・ラックRelic Rackを開店し、一方で、タイムズ・スクエアのもう一人のパートタイム従業員のウェイン・スティアールWayne Stierleは、無名のドゥーワップ盤再発行に特化した自分のキャンドルライトCandleliteレーベルを始めた。
そしてマーセルズThe Marcels、ジャイブ・ファイブThe Jive Five、クレフトーンズThe Cleftonesによる最新の45回転盤もまだ聞くことができ、悪名高きブリティッシュ・インベージョンの始まりはまだ2年先のことだった。
当時私たちの音楽の好みは狭量で、今は少しだけ良くなった。ボーカル・グループによる曲だけを聞きたかったし、できれば黒人の、フル・ハーモニーでボンボンなるバスがあった方が良かった。チャック・ベリーChuck Berry、ファッツ・ドミノFats Domino、エルビスElvisは好きだったが。収集する価値があるとまでは思わなかった。私たちはとても若くて、ドゥーワップ中心の世界について何でも知っていると思い、素晴らしいR&Bグループ・ハーモニーの正に最初のリバイバルに立ち会えたのは幸運だった。懐古趣味は60年代初期にはほとんどなく、もっと後になって現れた。私たちの最高の音楽であるドゥーワップと同じように、その時代は、もし思い出の中だけであっても純粋で素朴だった。