コーズThe Chordsのシュ・ブームSh-Boom
この曲のヒットの後、白人アーティストたちは翌年以降、黒人の尻馬に乗った。(1954年)そして、リリースしたとたんに爆発した。クリュー・カッツThe Crew Cutsの『カバー』バージョンはチャートでもっと高くまで行き、何も悪さをはたらかなかった。
アラン・フリード ロックンロール・パーティAlan Freed Rock’n Roll Party
間違いなく、第1次ロックンロール時代にもっとも影響力のあったディスク・ジョッキーはアラン・フリードで、1954年半ばにニューヨーク(そしてウインズWINS)に来る前に、クリーブランドで名を上げた。
『そこにいられたらよかったのに』というショーの出演者からわかるように、フリードは常にボーカル・グループの支援者で、当時の白人による口当たりの良いカバー・バージョンよりも、オリジナルの黒人レコードを宣伝していた。
フランキー・ライモンFrankie LymonとティーネージャーズThe Teenagersのホワイ・ドゥ・フールズ・フォール・イン・ラブ
1956年にフランキー・ライモンを世に紹介した曲。オリジナルのソングライターのクレジットに注目。
教師と生徒:フランキー・ライモンは、彼のキャリアの初期に、どこにでも現れるジョージ・ゴールドナーGeorge Gorldnerと一緒にいて、物思いにふけったポーズを取った。この直後、ゴールドナーは自分のレーベル(とライモンなどのアーティスト)をルーレットRoulette recordsに売却し、フランキーのキャリアは転げ落ち始める。