大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝 パート3 第5夜
2013年3月30日放送
(放送内容)
大瀧詠一のアメリカンポップス伝パート3の最終日ということでパート1で特集しましたロックンロールの故郷、メンフィスのその後についてお話していこうと思います。
55年秋にエルビスが去りますが、56年にはカール・パーキンスのブルー・スエード・シューズがナンバーワン。
57年に登場したジェリー・リー・ルイスは、エルビスに次ぐ人気者となりました。
さらにビル・ジャスティスのインスト、ローンチーもナンバーワンを獲得し、エルビスが去った後もサンレコードからは、次々とヒットが出ていました。
ジョニーキャッシュも安定したチャートアクションを見せていて、そこにロイ・オービソンもやってきました。
Ooby Dooby / Roy Orbison
これがポップチャート59位にランクされて好調な滑り出しを見せたんですが、それ以降ロイ・オービソンはぱったりとヒットが出なくなったと、これは以前にお話したとおりです。オービソンの第2弾シングルはロック・ハウス。
Roy Orbison – Rock House (original version from The Rocker LP)
この曲を作ったのはオービソンではなく、エルビスを夢見てサン・レコードの門を叩いたハロルド・ジェンキンスという若者でした。
Rock House / Harold Jenkins
ハンク・スノーのアイム・ムービング・オンですね、これ。
作者である、この本人のバージョンはリリースされずに、サム・フィリップスは、この曲をロイ・オービソン用の第2弾シングルに回してしまったわけです。
しかしまたそのオービソンもヒットしなくて、この若者、ハロルド・ジェンキンスはサン・レコードから1枚のレコードも出すことなく去っていきました。彼はその後マーキュリー・レコードと契約して、シングルを出しましたが、これもほとんどヒットせずで、次にMGMレコードと契約して、最初に出たシングルが大ヒットしました。
It’s Only Make Believe/Conway Twitty
https://www.youtube.com/watch?v=fIBdnzdZP08
本名ハロルド・ジェンキンス。58年9月にチャートに登場してナンバーワンに輝きました。R&Bでは12位でした。録音はナッシュビルのブラッドリー・スタジオ。
ギターはブラディー・マーティン Grady Martin、ピアノはフロイド・クレーマーFloyd Cramer、コーラスはジョーダネイヤーズ Jordanairesというラインアップでした。
メンフィスからナッシュビルへ、コンウェイ・トゥエッティもエルビスの歩んだ道をたどったわけですね。これ、段々段々音程が上がっていくという歌の構成なんですけど、ワン・コーラスごとに一音あげて、遠遠やっていけば、これコミック・ソングなんですけどね、関係ないですけど。同じ時期にジェリー・リー・ルイスはブレーク・アップっていうシングルを出してまし・たけど、最高位は52位どまりでした。
Break Up / Jerry Lee Lewis
57年には2位、3位というヒットをたくさん出していたジェリー・リー・ルイスですけれども、58年には5曲チャートには入っていますが、7位が1曲で他の4曲は全部トップ20以下でした。ジェリー・リー・ルイスのいい時期というのは、1年半くらいだったんですね。一方、このサン・レコードでシングルすら出してもらえなかった、このコンウェイ・トゥイッティ、彼の方が1位を獲得したという、そういう皮肉な結果となりました。このころサン・レコードからはカール・パーキンスとジョニー・キャッシュも相次いで去っていったんですね。
二人ともコロンビア・レコードに移籍しました。
ですからサン・レコードもよかったのは56年から3年くらいで、まさにこれもロックンロール誕生と衰退を象徴した動きだったといえると思います。
それでも、サンレコードからはその後59年、新人のカールマンを読んできて録音させたモナリサがポップチャートで24位と検討しました。
Mona Lisa/Carl Mann
エンディングのこのギターのモナ・リサーてのがいいですね。ご存知ナット・キング・コールのバラードをロックンロールにアレンジしたものです。
アハハアハハハーてのが良かったですけどね。このカールマンは同じナット・キング・コールのロックンロール路線を続けるんですね。プリテンドとトゥーヤングもロックンロールにしました。
Pretend / Carl Mann
https://www.youtube.com/watch?v=I0bE_00ee5M
Too Young/Carl Mann
カールマンのモナ・リサのヒットに目をつけたのがコンウェイ・トゥイッティです。このモナリサをカバーしたんですね。そうしたところ本家カール・マンの1ヵ月後にチャートされました。
Mona Lisa / Conway Twitty
こちら、モナリザ、モナリザとにごって発音してましたが、ところが最高位は29位とオリジナルの25位に負けてしまったんですね。よほど悔しかったと見えて コンウエイ・トゥエッティ は新曲も同じ路線で行くことにしたんです。取り上げた曲はアイルランド民謡のダニー・ボーイ。
Danny Boy / Conway Twitty
途中から、「てなこと言われて」となんのかと思ったですけど、これをカール・マンが第2弾のプリテンドを出してくる前に発売したんですね。するとこれがトップテンにランクインしたんです。本家カールマンのプリテンドは57位に終わって、コンウェイ・トゥイッティはモナ・リザの敵をダニー・ボーイで討ったという風になりますね。その余勢を買って出したシングルがロンリー・ブルー・ボーイ。
Lonely Blue Boy / Conway Twitty
ギターはグラディー・マーティンでした。これも6位と大ヒットだったんですね。歌い方もところどころエルビスそっくりだったんですけども、もちろんエルビスになりたくてサン・レコードの門を叩いたわけですからね、似てるのは当然何ですけども理由はそれだけではなくて、この曲の作者はフレッド・アイズFred Wiseとベン・ワイズマンBen Weisman、エルビスの常連の作家チームなんですね。
しかもこの歌はエルビスも歌っていたんです。
Danny / Elvis Presley
こちらのタイトルはダニー、映画「闇に響く声」、キング・クレオール用に吹き込まれたんですけど、映画には採用されませんでした。そこで作者が、コンウェイ・トゥイッティー用にロンリー・ブルーボーイと書き直したわけですね。ですからエルビスに似てるのも当然のことでした。しかし、聴いてるとコンウェイ・トゥイッティの濃い歌い方を聞いた後でエルビスを聞いてると、あっさりした感じに聞こえますけども、本家って言うのは以外にあっさりしてるんですよね。まねする方はどうしても、こう、力が入るんで、極端な表現になってしまいます。この後、コンウェイ・トゥイッティーは、世のエルビス・フォロワーと同じく映画に進出することになるんですが、彼についてはここまでといたします。さてサンレコードにはたくさんヒットが無いアーチストがいっぱいいたんですね。レイ・ハリスもその一人でした。
Come On Little Mama/ Ray Harris
このレイ・ハリスは、早々とミュージシャンに見切りをつけてプロデューサーに転身します。最初にプロデュースしたのはジェリー・リー・ルイスの従弟、カール・マクボーイ。カール・マクボーイが、ステージで、ユー・アー・マイ・サンシャインをロックアレンジで歌っていたのを見て早速そのデモテープを作りました。
You Are My Sunshine(demo) / Carl McVoy
このデモを録音したレイ・ハリスは、お金をかき集めて自分のレコード会社を作って、この曲を第1号プレスとしました。そのレコード会社の名前がハイ・レコード、エイチ・アイのハイですね。
57年12月のことでした。ところがそのハイ・レコード、早々と資金繰りに困ってしまって、そこでサン・レコードのサム・フィリップスに原盤を買ってもらうことでピンチをしのぎました。そしてメンフィスの古い映画館を借りて改装して、そこをハイ・レコーディング・スタジオとしました。さらにサン・スタジオにあったアンペックスのテープレコーダーも手に入れました。
映画ラストショーの映画館が閉館したのは52年という設定でしたが、ハイスタジオは58年ですね。ですから更に止める映画館が増えていったということなんでしょう。ところがそのハイ・レコード、発売した16枚のシングルが悉く売れません。そこでスタジオのレンタル業を始めたんですね。当時メンフィスの近辺には、サン・レコードの大成功でレーベルを持つ人がたくさんいました。ところが彼らはスタジオを持っていません。ですからハイ・レコードのスタジオ・レンタル業は順調でした。DJをやっていたエディー・ボンドという人がいます。
この人はストンパー・タイムというレーベルを始めたんですがスタジオがありませんでした。ですからハイ・スタジオを使いました。そして自分のレコードを出しました。エディボンド、ブンバカカーカ。
Boo Bop Da Caa Caa / Eddie Bond
間奏のギターは若き日のレジー・ヤングReggie Youngです。
このストンパー・タイム・レーベルからは次々に新人アーティストが登場しましたが、その中にウィリー・ミッチェルがおりました。
The Crawl / Willie Mitchell
58年6月の録音ですが、これがローカル・ヒットとなってメンフィスの音楽関係者にウィリー・ミッチェルの名前が知られることになった曲でした。トランペッターであり、アレンジャーのウィリー・ミッチェルはすでに55年くらいから自分のバンドを持って活動してたといいます。バンドのメンバーはベースがルーイ・スタインバーグLewie Steinberg、ドラムはあるジャクソンでした。
ではいま聴いていただいたクロールのカップリング曲を聴いてみましょう。
Bongo Beat / Willie Mitchell
58年の録音なんですけど、すでに後のメンフィスサウンドの特徴である圧縮感のある音になってますね。ハイ・スタジオでは、この後2代目のアンペックス・レコーダーを買い入れて、2台使って8チャンネル録音を行ったりしていたそうです。このストンパー・タイムより1年前に作られたレコード会社がありまして、それをファーンウッド・レコードFernwood Recordsといいます。
ファーンウッド・レコード、作ったのはトラック・ドライバーでミュージシャンのスリム・ウォレスSlim Wallace。自宅を改造してスタジオを作りました。ファーンウッドレコードの第1号のアーチストはビリー・リー・ライリー。
Trouble Bound / Billy Lee Riley
このトラブル・バウンド、このテープをサン・レコードに持ち込んだところ、サムフィリップスが気に入って原盤を買い取ってくれたんですね。そしてサン・レコードから発売されました。このファーンウッド・レコードに58年、キング・エルビスのギタリスト、スコッティ・ムーアがやってきます。
エルビスが入隊したので仕事がなくなったんですね。それでメンフィスに戻ってきていました。ファーンウッド・レコードはスコッティ・ムーアを副社長兼プロデューサとして迎えました。しかしなれないプロデューサ業務でなかなかヒットが出なかったんですけども、唯一の大ヒットがトラジディーでした。
Tragedy / Thomas Wayne & The DeLons
歌っていたのはトーマス・ウェイン、後にエルビスの楽曲を提供しましたが、エルビスのハイスクールの後輩なんですね、彼は。学校時代にはバンドを作っていましたが、そのメンバーにチップス・モーガンがいました。トーマス・ウェインのトラジディは、59年1月にチャートに登場、ポップで5位になる大ヒット曲でした。ブレンダ・リーやジョニーティ・ロトソンもカバーしてます。
でもフリート・ウッズのバージョンが一番有名ですね、10位になってました。
この大ヒットでプロデューサ、スコッティ・ムーアも面子が立ったという感じじゃなかったでしょうかね。このファンウッド・レーベルからはスコッティ・ムーア自身のレコードも出しているんです。スコッティムーア・トリオ、スコッティ・ムーア・トリオといえば、ギター、スコッティムーア、ベース、ビルブラック、ドラムはDJフォンタナ。
Have Guitar Will Travel/ The Scotty Moore Trio
ハブ・ギター・ウィル・トラベルという、スコッティ・ムーアとビル・ブラックが作ったインストルメンタルでした。キング・エルビスが不在の間にバックのトリオが演奏したという貴重なレコードだったわけですが、このスコッティー・ムーアのプロデュース業務に刺激されたのでしょうか、ビル・ブラックも自分のバンドを作りたいということで、ハイ・レコードのレイ・ハリスのところへ相談に行きました。レイ・ハリスとビル・ブラックはサン・レコード時代の同僚だったんですね。早速メンフィス中のミュージシャンを物色してバンドを編成。ギタリストには先ほどかけましたエディー・ボンドのところでギターを弾いていたレジー・ヤング、ドラムにエディー・アーノルドJerry Arnoldなど意気のいい若者を集めまして、ビル・ブラックス・コンボBILL BLACK’S COMBOとしてレコードを発売しました。
Smokey Part.2 / Bill Black’s Combo
1960年のお正月からヒットし始めてR&Bチャートでは1位です。ポップでも18位というビッグ・ヒットとなってメンフィス生まれのインストとしてはローンチーに続く歴史的なヒット曲をハイ・レコードが作り出したことになりました。ところがデビュー・ヒットの直後にメンバー交代が起こりまして、新しいピアノ・プレーヤーには、ユー・アー・マイ・サンシャインを歌っていたカール・マクボーイ、そしてサックス・プレーヤーにはエース・キャノンAce Cannonが加わります。
メンバー・チェンジを行った第2次ビル・ブラックス・コンボは、今度はハモンド・オルガンをフィーチャーした第2弾シングルを発売します。
White Silver Sands / Bill Black’s Combo
これもR&B1位、ポップは9位と前作を上回る大ヒットでした。ビル・ブラックス・コンポは超人気バンドとなったんですね。もうこうなりますと押せ押せですね。ビル・ブラックスは昔取った杵柄、エルビス・ナンバーを取り上げました。
Don’t Be Cruel / Bill Black’s Combo
これもR&B9位、ポップ11位と大ヒットです。さらに勢いに乗じて、メンバーのサックスプレイヤー、エース・キャノンのソロ・シングルまで出すことになりました。
Tuff / Ace Canon
これはねえ、チーク・ダンスにいいんですよね。エースキャノンのタフ、これもR&B3位、ポップ17位の大ヒットでした。すごいですね、このバンドの勢いは。このエース・キャノン、実は以前サン・レコードでビル・ジャスティスのバックをやっていたんです。ビル・ジャスティスのキャティワンパスを聴いてみましょう。サックスはエース・キャノン。
Cattywampus / Bill Justice
エース・キャノンのタフはこれの焼き直しだったんですね。これはビル・ブラックス・コンボがデビューする前の録音ですから、やはりビル・ブラックス・コンボのサウンドの原点もサン・サウンドだったということになると思います。でもタフはスロー・テンポにアレンジしたところがミソでしたね。1955年から60年にかけてはアメリカン・ポップス史上、最多のロック・インスト・バンドが登場した年で、ビル・ブラックス・コンボはその中でも、トップ・クラスのバンドでした。1964年のビートルズUSツアーというのがありましたが、このビルブラックスコンボは出演しています。
それもビートルズ・メンバーのたっての希望だったということですね。ちなみに、ビル・ブラックスがザッツ・オールライト・ママとかハートブレーク・ホテルなどで弾いていたアップ・ライト・ベースがあります。
あれがですね、現在はポール・マッカートニーが持っているそうです。そのベースを弾きながらポールがハートブレーク・ホテルをうれしそうに歌っていましたね。さて、ファーンウッド、ハイ、ストンパータイムに続いて参入してきたのが、サテライト・レコードSatellite Recordsです。
創立者はジム・ストゥアートJim Stewart。
彼はお姉さんなどの協力で会社を作りました。スタジオは最初は自宅のガレージをやっぱり改造して、最初のレコードはこれまた地元のDJの歌でした。
Blue Rose / Fred Byler
創立者のジム・ストゥワートは、経営のみで音楽的な実務を行っていたのはチップス・モーガンです。彼はこのサテライト・レコードに来る前はバーネット兄弟のデモ作りを手伝ったり、ジーン・ビンセントのツアーバンドのメンバーだったりといろいろな経験をしていました。サテライトの第4弾シングルはそのチップス・モーガンが作曲したフール・イン・ラブ、歌ったのはベルトーンズ。
Fool In Love /The Veltones
このグループは以前サン・レコードで吹き込みをしていたんですが、サムフィリップスが発売してくれなかったんですね。そこでサテライト・レコードにやってきたという若者たちでした。ここでハイ・レコードと同じようにサテライトも、古い映画館を借りてそこを新スタジオにすることになりました。新スタジオができてから契約したのは、またまた地元のDJだったんで、ほんとに地元のDJをレコードにするんですね。地元のDJでも人気者のルーファス・トーマスRufus Thomasでした。
彼は53年にサン・レコードからベア・キャットというヒット・シングルを出していました。
Bear Cat / Rufus Thomas
お分かりのとおり、ハウンド・ドッグのアンサー・ソングですけども、R&Bチャートで、当時3位になったんですね。これで気をよくしたのか動物シリーズを続けたんですね、この人は。タイガー・マンという曲もありました。
Tiger Man (King of the Jungle)/ Rufus Thomas
キング・オブ・ザ・ジャングル、タイガー・マンですけども、ミストリー・トレインでしたね、これ。
ル・ファス・トーマス、ルーファス・トーマスはサン・レコードから新しくできたサテライトへ移ってきました。ルーファス・トーマスには17歳の娘カーラがおりまして、親子ドュエットというのが企画されて、新スタジオでの最初のレコーディングが行われました。
Cause I Love You/ Carla & Rufus Thomas
バパパバパパッパというバリトン、サックスを吹いていたのは若き日のブッカー・ティー・ジョーンズBooker T. Jonesでした。
この曲はニューオリンズのジェシー・ヒルJessie Hill のウー・プー・パドゥーOOH POO PAH DOOを下敷きにしてますけども、これがアトランティック・レコードのジェリー・ウェクスラーJerry Wexlerが気に入ったんですね。
で、アトコ・レーベルから発売されました。続きまして娘のカーラ・トーマスが自作のソロ・シングル、ジー・フィーズを発表したところ大ヒットとなりました。
Gee Whiz /Carla Thomas
10代の女の子の気持ちを切々と歌い上げた曲でしたが、カーラ・トーマスはまだ在学中だったんですね。大ヒットで学校は大騒ぎになったということです。こちらはアトランティック・レーベルから発売されてR&B5位、ポップでも10位にランクされるというサテライト・レコード創設以来はじめてのナショナル・ヒットとなりました。サン・レコード、ファーン・レコード、ハイに続いてサテライトはメンフィス・サウンドをチャートに送り込んだ4番目の会社となったわけでした。地元でもっとも有名なレコード店にホーム・オブ・ザ・ブルース・ショップというお店があります。ジョニー・キャッシュがこのお店のことを歌っています。
Home Of The Blues/ Johnny Cash
ここもレコード産業に参入してきたんですね。そこへウィリー・ミッチェルが移籍してレコードを出しました。
I Like It/The Willie Mitchell Combo Four Kings
なるほど、これも録音ハイ・レコードのスタジオでした。ウィリー・ミッチェルはこの後いよいよハイ・レコードから呼ばれまして、そこで中心人物となって行きました。サテライト・レコードにも同じように、ホーンをフィーチャーしたロイヤルズ・フェーズというグループがありました。会社の出資者の息子がメンバーにいたということもあって、レコード・デビューにあたってはバンド名をマーキーズと改めましてデビュー曲は、ラスト・ナイト。
The Last Night / The Mar-Keys
61年夏に発売されましたこの曲、R&Bで2位、ポップ・チャートでも3位にランクされて、サテライト・レコードとしてはジーン・フィズを凌ぐ超ビッグヒットとなりました。このヒットを契機にレーベル名をサテライトから、スタックスStax Recordsに変えたのでした。創立者のジム・ストゥアートJim StewartのSTと姉のアクスル・アクストンEstelle AxtonのAXを合わせてSTAXとしたわけです。
シングル、ラスト・ナイトを新たにスタックス・レーベルの第1号として、さらにスタジオもスタックス・スタジオと名称を変更しました。
この後、60年代のメンフィス・サウンドをハイ・レコードと共に、このスタックスが作っていきます。そしてナッシュビル詣でのような、各アーティストのメンフィス詣でが始まるのですが、そのお話はまた次の機会ということにいたしまして、その後のメンフィス事情、本日はここまでといたします。1959年前後のインスト・ブームはダンス・ブームという背景がありました。ロック・インストというのは、座って聴く音楽ではないんですね。踊りながら聴くのが楽しいんです。まあ、あるいはカー・ラジオですね。それで爆音で聴く音楽なんですね。アメリカン・ポップス伝パート3、今回はナッシュビルとニューヨークのその後、フィラデルフィア物語、シンシナチーのキングレコード物語、そして最後はメンフィスのその後をお送りいたしました。大瀧詠一のアメリカンポップスの旅、今回はこの辺で。