大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝 パート4 第5夜
2013年8月16日放送
(放送内容)
大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝 本日は、パート4の最終回です。今回の第2夜で、50年代、ウエスト・コーストのR&B事情をお送りいたしました。本日は、その続編で、50年代中期のウエスト・コースト・ポップス事情をお送りいたします。西海岸では何と言いましても、作家のジョニー・マーサーJohn Herndon Johnny Mercerが作ったキャピトル・レコードCapitol Recordsが最大の会社でした。
創立は42年。その後、ジャズやR&BのモダンModern Records、アラジン、スペシャルティ、インペリアルが40年代に作られました。
そして50年代中盤から後半にかけて、雨あられのごとくレコード会社が作られます。本日は、新しいレコード・会社の話を中心に、ウエスト・コースト・ポップス事情をお送りします。
The Wayward Wind / Gogi Grant
ゴジー・グラントのザ・ウエイワード・ウィンド 、日本題は「風来坊の歌」、56年6月にナンバー・ワンになった曲です。その前の1位がハートブレイク・ホテルで当時はハートブレーク・ホテルを蹴落とした曲、と宣伝されました。
このレコード会社が、LAで55年にスタートしたばかりのエラERAという会社です。
この社長がウエイワード・ウィンドの作家としてもクレジットされているハーブ・ニューマンHerb Newman。
彼は従妹に、「レコード会社を始めた方が良いよとアドバイスします。その従妹とは、サイモン・アロンカ Simon Waronker 。
アロンカが設立したのが、リバティ―・レコードLIBERTY RECORDS。
リバティ―・レコードの第1号は、ハリウッドの映画音楽でおなじみの、ライオネル・ニューマンのシングルでした。
The Girl Upstairs / Lionel Newman
ザ・ガール・アップステアーズという、「上の階の女」ですね。に下位の女が気にかかるってやつですか。で、これは、マリリン・モンローが出演した「七年目の浮気」の挿入歌です。トム・ウェールTom Ewellがベランダに出ると、上から鉢植えが落ちてきて、モンローが顔を出すという、そのシーンのBGMでした。作曲は、この映画音楽を担当したアルフレッド・ニューマンAlfred Newman。
つまり、兄貴の曲を弟がカバーした、そういうわけです。それがリバティ・レコードの第1号となりました。
で、社長のサイモン・アロンカは、レコードを始める前は15年近くも20世紀フォックスで、音楽の仕事をしていました。
ですから、その関係から、第1号をライオネル・ニューマンに依頼したんだと思います。ま、お祝いっていうところでしょうね。そして、リバティー6枚目のシングルが大ヒットとなりました。
Cry Me A River/ Julie London
55年9位のヒット、ジュリー・ロンドンのクライ・ミー・ア・リバー。これはヒットから1年後の映画で、ジュリー・ロンドン本人が出てきて、歌っていました。その映画とは。
Girl Can’t Help It / Little Richard
ジェイン・マンスフィールドJayne Mansfield主演の「女はそれを我慢できないTHE GIRL CAN’T HELP IT」でしたね。
20世紀フォックス映画で、担当はライオネル・ニューマンでした。リバティ―・社長、サイモン・アロンカと20世紀フォックス、そしてライオネル・ニューマンとの関係を考えると、映画で音楽を使ってもらえる立場にあったわけですね。同じく、フォックス映画であったところのラブ・ミー・テンダーの音楽担当も、ライオネル・ニューマンでした。
ですから、「女はそれを我慢できない」で、エルビスの代役としてリバティ―・レコードの新人、エディ・コクランをスクリーン・デビューさせることができたわけですね。
Twenty Flight Rock / Eddie Cochran
映画といいますと、ヒッチ・コックに「裏窓」という作品があります。
中庭に面した四方のアパートの窓から室内が見えるという設定ですが、あの中に作曲家が登場してるんですね。あれは、本物の作曲家、ロス・バグダサリアンRostom Sipan “Ross” Bagdasarianなんです。
ローズマリー・クルーニーのカモナ・マイハウス・マアイハウス・カモンの、それを書いた人なんですが、リバティ社長のサイモン・アロンカと仲が良く、彼もリバティーからレコードを出すことになりました。
タイトルは、トラブル・ウィズ・ハリー、ハリーの災難。
The Trouble With Harry/ Alfi & Harry
ハリウッド版、猫の災難、というところでしょうかね。ご存知、ヒッチ・コックの映画のタイトルから頂いたもんですが、アーティスト名は、アルフィー・アンド・ハリーというタイトルで、このシングルはそれでも、44位にランクされました。このようなコミカル・ソングはウエスト・コースとの専売特許なんですね。
St. George & The Dragonet/Stan Freberg
これは53年のナンバー・ワン・ソング、セント・ジョージとドラゴネットSt. George and the Dragonet というやつですけども、当時大ヒットしていた警察ドラマ、ドラゴネットをセント・ジョージのドラゴン退治に仕立てあげたパロディ・ソングなんですが、これを作ったのがパサディナ生まれのスタンフィルバーグ、54年にはドゥー・ワップのシュ・ブームもからかっておりました。
Sh-Boom / Stan Freberg
この人はいつも最後は、こういうカオス状態になって終わるというのが、パターンなんですが。このような悪ふざけでも14位にランクされました。このタイプのユーモアは、アメリカ生まれの方々、特に、西海岸の人は好むようですね。ウエスト・コースとがノベルティ・ソングの専売特許と申し上げましたが、元祖が個々の出身なんですね。ノベルティ・ソングの大御所、スパイク・ジョーンズは、カリフォルニアのロング・ビーチ出身でした。
William Tell Overture/ Spike Jones & His City Slickers
元祖を生んだ土地ですからね、次々に後輩が登場してくるわけですね。矢張り、ハリウッドという土地柄なんでしょうかね。
音楽もハリウッド的で、サウンドにいろいろな仕掛けがあります。さて、デビッド・セビルDavid Sevilleこと、このロス・バグダサリアンRostom Sipan “Ross” Bagdasarianは、以前からテープ・レコーダーなどの機械をいじるのが好きだったんですね。
また、リバティ―・レコードLIBERTY RECORDS には共同経営者の中にエンジニアがいたんです。
テッド・キープTheodore Keep。で、彼は録音技師です。エンジニアが経営者にいるというのは非常に珍しいケースです。デビッド・セビルとエンジニアのテッド・キープは、合同でテープの早回しサウンドを作りました。
Witch Doctor/ David Seville
デビッド・セビルでウィッチ・ドクター、58年、ポップでもR&Bでもナンバー・ワンに輝きました。で、ケロケロ声ですが、あれはデビッド・セビルの本人の声をスピードアップしたもんです。これで味を占めたセビルとリバティ―・レコードは、この路線をさらに拡大します。マルチ・トラック・レコーディングを駆使して、架空のグループを作ります。
ザ・チップ・マンクス。
The Chipmunk Song (Christmas Don’t Be Late) /The Chipmunk
出だしの。「オーケー、サイモン?」ていうのは、社長のサイモン・アロンカSimon Waronker、「オーケー・セオドア」っていうのは、技師のテッド・キープTheodore Keep、そして最後に怒鳴られる「アルベン」というのは、もう一人の経営者、アルビン・ベネットAlvin Bennettのことで、この曲もクリスマス・シーズンっていうこともあって、ポップで再び1位、R&Bでも5位にランクされて、早回しサウンドは爆発的なヒットになったんですね。特に、まあ、お分かりの通り、子供に大人気で、これがリバティ―・レコードのドル箱路線となって、次は、この怒られていたアルベンを主人公にして、アルビンのハーモニカとか、アルビンのオーケストラ、大統領に、ツイストと、延々とシリーズが作り続けられました。で、この録音技術が売り物のリバティ・レコードから、新たなアーティストの摩訶不思議なサウンドが登場します。
Quiet Village/ Martin Denny
エキゾチック・サウンドのマーティン・デニーです。57年にリリースされたアルバム、エキゾティカは、59年になってからですが、ナンバー・ワンを獲得しました。
56年のキャデッツ、それとか、ジェイ・フォークスThe Jayhawksのストランデッド・イン・ザ・ジャングルStranded in the Jungleが思い出されますが、西海岸の人はジャングル・サウンドが好きなようです。
このクワイアット・ビレッジのオリジナルは、レス・バクスターです。
Quiet Village / Les Baxter
キャピトル・レコードでナット・キング・コールNat King Coleなどのサウンドづくりなどをしていたレス・バクスター、彼が51年にリリースしたアルバムが、ライト・オブ・サベッジRitual Of The Savage、野蛮の儀式ですね。
ナット・キング・コールの甘美なバラードをアレンジする傍ら、自分の趣味は、このようなジャングル・サウンドでした。まあ、尤も、実際の音作りは、ネルソン・リドルNelson Riddleが行ったという説もあるようですが、まあ、真偽のほどは分かりません。
ここでは、リスト通りに、レス・バクスターとしております。リバティーからは次々にマーティン・デニーMartin Denny以外にも、不思議な音のレコードが発売されます。
SF映画、タイム・マシンThe Time Machineのサントラも手掛けた、ラス・ガルシア楽団は、58年にファンタスティカというアルバムで、スペース・サウンドを披露しました。
Venus / Russ Garcia & His Orchestra
ビーナス、火星(金星の誤り)の歌ですね。1957年に世界初の人工衛星スプートニク号の打ち上げに成功しましたので、この頃スペース・サウンドが大流行したんですね。
次に登場するリチャード・マリーノ楽団RICHARD MARINOも、アウト・オブ・ディス・ワールドOut Of This Worldというスペース・サウンドのアルバムを出しましたが、その前に出たマジック・ビート The Magic Beat! というアルバムから出たフィーバーを聞いてみましょう。
Fever/ Russ Garcia
えー、テープ・レコーダーの早回しから、エキゾチックなジャングル・サウンド、そしてスペース・サウンドと、映画でいうところのSFX的なサウンドが、このリバティ―・レコードの特徴でした。とにかく録音技術に凝っていた会社だったんですね。そういえば、エディ・コクランEddie Cochranのスゥティニン・ザ・バルコニーSittin In the Balconyもリバティー・レコードでした。この時代の数あるフィードバック・エコーの中では、ナンバー・ワンの聞き具合でしたね。リバティー・レコードはこの後も映画音楽のレコードのリリースが続いて、ユニバーサル映画で、怪奇映画などの音楽を担当していたヘンリー・マンシーニもリバティーからレコードを出しています。映画、「ロック・プリティ・ベイビー」の挿入歌で、ホット・ロッド。
Hot Rod / Henrry Mancini & His Orchestra
57年リリースのホット・ロッドでした。この頃、ホット・ロッドというタイトルのついた映画が、ほとんどB級映画なんですが、沢山作られ始めた時期でした。また58年の同じく、ユニバーサル映画、サマー・ラブの音楽もヘンリー・マンシーニでした映画の中では主人公が歌っているんですけど、実際に歌っていたのは、その俳優ではなく、別の人なんですね。つまり、影武者が使われていたわけです。落ち武者じゃなくてね。影武者をつとめたのは、キップ・タイラー。
Summer Love/Kip Tyler
キップ・タイラーは、影武者だけでなく、自分でフリップスというバンドを持っていて、レコードも出していました。このバンドのマネジャーは、フィル・スペクターのお姉さんだったという説もあります。スペクター本人は参加していません。では58年、チャレンジ・レーベルからリリースされた、
ジャングル・ホップ。
Jungle Hop/ Kip Tyler & His Flips
ボ・ディドリー・ビートのジャングル・ホップでしたが、本当にウエスト・コースとのミュージシャンはジャングルが好きですね。ロックンロールであってもウエスト・コーストの場合は、ギミック入りというのが特徴なんですね。この曲のサックスは、スティーブ・ダグラスSteve Douglas。
ドラムが、マイク・バーマニ。ピアノがラリー・ネフテル。この3人がそのままデュアン・エディのバンドに引き抜かれたんですね。そこで次に補充されたメンバーは、ドラムがサンディー・ネルソンSandy Nelson、ピアノがブルース・ジョンストンBruce Arthur Johnston、サックスがジム・ホーム。この新メンバーでの曲が、シーズ・マイ・ウィッチ。
She’s My Witch/ Kip Tyler
ウエスト・コーストの人たちはウィッチも好きですね。えへへ、とにかくロサンジェルスのミュージシャンは、作る曲が芝居がかってると言いますか、まあ、何度も言いますが、さすがにハリウッドの街だけあって、ノベルティ・ソングが自然にでき上る環境なのかも知れませんね。さて、このキップ・タイラー、結局この人はチャートに登場することがなかったんですね。ですから一般的には、知られませんでした。しかし、彼の周辺に登場した人物は、次のウエスト・コースト・サウンドを作る大物ぞろいだったわけです。ま、この表舞台には登場しないが、重要な位置にいた人というのは、時代の転換点には必ずいるもんですね。ハリウッドスター、ダグラス・ホーリーの息子、キム・ホーリーもこのころ裏で良く動いていた人です。とにかく、いろんな人のセッションに顔を出しています。当然ながら、映画関係の仕事も多く、59年の映画、ゴースト・オブ・ドラッグ・ストリップ・オブ・ホローという映画のサントラをプロデュースしています。その中から、レネゲーズというグループ名でシングルカットされた、ジェロニモ。
Geronimo / The Renegades
ジェロニモですけども、レコード・レーベルは、アメリカン・インターナショナル・レコーズAmerican International Records、B級専門のAIP American International Picturesがレコード会社を始めたんですね。
で、映画の中ではジェロニモのシングル盤をカメラの前に大写しして宣伝してました。レネゲーズというグループですが、演奏していたのは、ギターとベースが、リチャード・フォドー、後のリッチー・アレンですね。で、ドラムがサンディー・ネルソンSandy Nelson、キーボードがブルース・ジョンストンBruce Arthur Johnston、そしてギターと作曲がニック・ベネットNik Venet。彼らは後にビーチ・ボーイズBeach Boysを手掛けることになる人ですが、このようにそうそうたる顔ぶれでした。そして、この後すぐに同じメンバーで作られた曲がこれでした。
Teen Beat / Sandy Nelson
59年、ポップ4位、R&B位のインスト・ヒット、ティーン・ビートでした。で、こっからサンディ・ネルソンはソロになって、次々にインスト・ヒットを連発していきます。インスト・ヒットについては、また項目を改めてお話ししたいと思います。58年、59年になりますと、ウエスト・コーストもニューヨークと同様に、ホワイト・ドゥーワップの流れになって行きます。そのきっかけになったのが、ジャン・ベリーとアーニー・ギンズ・バーグのジェニー・リーでした。
Jenny Lee / Jan & Arnie
この、バーバババーバーバーババーバババーバしか印象に残らない、ジェニー・リーって言っている以外は、何を歌っているのかほとんど歌詞が聞き取れない曲なんですが、なんとこれが全米8位にランクされたんですね。で、レコード会社は58年にできたばかりのアーウィン・レコードArwin Records。
ドリス・デイと旦那のマーティン・メルチャーが作った会社です。本来なら、ジャン・ベリーとディーン・トーレンス、つまりジャンとディーンJan and Deanが歌う予定だったんですが、ディーンが徴兵されたので、ジャン・アンド・アーニーとなりました。
ジャンとディーンはエマーソン・ハイスクールEmerson High Schoolで一緒でした。サンディー・ネルソンSandy Nelsonもここで、マリリン・モンローMarilyn Monroeやボニー・レートも通った学校だそうです。
そして、アーニー・ギンズバーグBaron Arnie Ginsburgの方はユニバーシティー・ハイスクールUniversity High School。
ここは有名俳優の息子や娘が多いですね。ナンシー・シナトラNancy Sandra Sinatra、サンドラ・ディーSandra Dee、先ほど出てきましたキム・ホーリー、ランディー・ニューマンRandy Newmanもここなんですね。
で、両高とも近いところにあるので、頻繁に交流がなされていたようであります。で、ディーン・トーレンスDean Ormsby Torrenceの兵役といっても、6か月間だったんですね。
ですから、すぐに帰ってきて、ジャンとディーンJan and Deanになりました。
正式にジャンとディーンになってからは、レコード会社を移籍してプロデューサー・チームが付きました。それが、サム・クックSam Cookeを手掛けていたルー・アドラーLou Adlerとハーブ・アルパートHerb Alpert。新生、ジャン・アンド・ディーンのデビュー曲は、ベイビー・トーク。
Baby Talk /Jan & Dean
59年。ポップ10位R&B28位にランクされたベイビー・トークでした。それにしても、同じホワイト・ドゥーワップでも、ニューヨークとは全く違いますね。ウエスト・コーストの方はシンプルで明るく、そしてユーモラスです。これがウエスト・コーストのコーラスの特徴だと言えると思います。ベイビー・トークを発売したのは、ドリ・レコードDoré Records。こっからは、ジャンとディーンが来る前に特大のヒットが出ていました。
To Know Him Is To Love Him / The Teddy Bears
58年、なんと全米ナンバー・ワンだったんですね。で、フィル・スペクターHarvey Phillip Spectorはデビューから華々しいスタートを切っていたわけです。
テディ・ベアーズはフェア・ファックス・ハイスクールFairfax High Schoolに通っていた3人組です。
このフェア・ファックス・ハイスクールっていうのは、ロックンロール・ハイスクールと後に呼ばれましたが、スペクターの先輩がジェリー・リーバ―Jerome “Jerry” Leiber、ルー・アドラーLou Adler、ハーブ・アルパートHerb Alpert、後輩がラス・タイトルマンRuss Titelman、スティーブ・ダグラスSteve Douglas、更に、P.F.スローンP.F.Sloanとスティーブ・バリSteve Barri、全員この学校なんですね。
この、トゥ・ノウ・ヒム・イズ・トゥ・ラブ・ヒム、会ったとたんに一目ぼれは、ドラムはサンディ・ネルソンSandy Nelson、ピアノはブルース・ジョンストンBruce Arthur Johnstonに頼んだそうですが、デートがあるということで、断られたそうです。
で、ピアノはメンバーのマーシャル・リーブが弾いていますが、なんとこの曲、ベースが無いんですね。ベースが入っていないナンバー・ワン・ソングというのは珍しいと思いますね。この後、スペクターはスペクター・スリーというグループを結成して、アイ・リアリー・ドゥーというシングルをカットしました。
I Really Do/The Specter Three
このスペクター・スリー、 メンバーは学校の後輩、ラス・タイトルマンRuss Titelman、タイトルマンの家が練習場所だったようです。それから、後にスペクターの最初の奥さんとなるアネット・メラ、更には時々セッションに呼ばれたのが、フェア・ファックス・ハイスクールの後輩、ウォーレン・エントナーWarren Entnerです。で、この縁トナーは、グラス・ルーツのメンバーになりました。
Let’s Live For Today / The Grass Roots
この、ワン・ツー・スリー・フォーがエントナーの声なんですね。スペクターはこの後、レスター・シル Lester Sillに、是非、リーバー・ストラーJerome “Jerry” Leiber Mike Stollerを紹介してくれと、ニューヨークへ行きたいと、懇願します。
1960年5月、スペクターは久しぶりに故郷、ニューヨークへ戻り、リーバー・ストラーの仕事ぶりを勉強することになるのですが、ま、この話はまた後日ということにいたします。さて、グラス・ルーツが出てきましたので、このグループのプロデューサー・チーム、スティーブ・バリとP.F.スローンの話に移りましょう。スローンもバリも生まれはニューヨークで、少年時代にロサンゼルスに引っ越してきました。で、これは、リーバー・ストラーやフィル・スペクターと全く、境遇が同じなんですね。また、スティーブ・バリとP.F.スローンが知り合ったのは学校ではなく、62年に、ルー・アドラーがコンビを組ませた時が初対面だったそうです。スティーブ・バリは59年、ワーナー・ブラザース・レコードWarner Recordsから、ノートンズというグループ名でデビューしておりました。
Susie / The Nortons
チャーリー・ブラウンCharlie Brownのポップス版というところでしょうか。
このノートンズというのは、スティーブ・バリと近所の友達のバーニーの二人で、スティーブ・バリはこの頃、ノーティーというレコード店で仕事をしていて、更にマネージャーの名前も同じノーティーだったので、ノートンズとしたそうです。この話は、スティーブ・バリと直接交流があった朝妻一郎さんから伺いました。スティーブ・バリはその後何枚かのシングルを出しましたが、アーティストとしては成功しませんでした。一方のP.F.スローンは、ロサンゼルスのレーベル、アラジンAladdinからフリップ・スローンFlip Sloneという名前でデビューしています。
Little Girl in The Cabbin/P.F. Sloan
リトル・ガール・イン・ザ・キャビンでした。スティーブ・バリはポップ調、P.F.スローンはロック調と、二人の違った持ち味は最初から出ていたんですね。このスローンと・バリを組ませた、ルー・アドラー、この3人がダンヒル時代を築き上げることになるんですが、スローンもバリも、なかなかシングルヒットが出ませんでしたから、そのころには、そのような未来は全く予想だにできなかっただろうと思います。57年、8年には更に新しいレコード会社が続々と誕生してきます。57年のキーンKEENは、サム・クックSam Cookeで当てました。
そして、シンギング・カウボーイThe Singing Cowboyのジーン・オートリ―Gene Autry、彼が作ったチャレンジChallenge Records、これはテキーラ Tequilaで当てました。
58年になると、テディ・ベアーズ、ジャンとディーンのドリ、続いてボブ・キーンBob Keane(Bob Keene)が作ったデルファイDel-Fi Records、リッチー・バレンスRitchie Valensがいました。
で、作曲家のレオン・ルネ Leon Renéのニュー・レーベルがラン・デ・ブーRendezvous Records 、イン・ザ・ムード In The Moodのインスト・ヒットがありました。
そして、ワーナー・ブラザースWarner Bros.とコルティックスCoretex Records
も58年創立で、どちらも映画やテレビ関連のレーベルでした。
コルテックス・レコードはコロムビア映画のサントラを作っていましたが、59年、4月公開の映画がギジェットGidget、主演がサンドラ・ディーSandra Dee、主題歌を歌っていたのは共演者でもあったジェームス・ダーレンでした。
Gidget / James Darren
これは後にビーチ・ムービーと呼ばれた映画の元祖です。ギジェット。たくさんのサーファーが登場して、サーフィン場面もふんだんにあります。もちろん水着の女性もたくさん出てきます。しかもカラー。インストバンドのベレアーズのメンバーも「こんなにサーフィンの出て来る映画は初めてだった。この映画は衝撃的だった。」と発言してます。ギジェットgidgetとは小さな女の子ですね、ちっちゃな女の子。ガールgirl・イン・ミジェットmidgetという、それを縮めたもので、もともと小説家なんかで有名になっていたキャラクターをサンドラ・ディーが演じたわけですが、それがぴったりだったんですね。この映画で一気にティーネージャ―・アイドルとなりました。この映画の予告編でナレーションを担当していたのが、ディック・クラークRichard Wagstaff “Dick” Clark。
そのディック・クラークの初の主演映画が作られることになって、このギジェットの監督、ポール・ウェンドコスPaul Wendkosが起用されました。それが、ビコーズ・ゼア・ヤング。
Because They’re Young/Duane Eddy
60年公開のコロムビア映画、ビコーズ・ゼア・ヤング。ディック・クラークが経営参加していたジェイミー・レコードJamie Recordsのエースがデュアン・エディですから、主題歌に起用されたんだと思います。
映画の中に、デュアン・エディとレベルズが登場して、この曲を演奏しておりました。
Shazam / Duane Eddy
映画の主題歌、ビコーズ・ゼア・ヤングの主題歌を書いたのはドン・コスタDon Costa。
メロディーの譜面だけが、リー・ヘイゼルウッドLee Hazlewoodのところへ送られてきて、デュアン・エディとレベルズがアレンジして4位となる大ヒットでした。
トワンギー・ギターの映画主題歌はこれが初めてで、これを聞いたドン・コスタは、早速アル・カイオラのギターで、このサウンドを使いました。
The Magnificent Seven /Al Caiola & His Orchestra
荒野の七人。作曲はエドガー(エルマー?)・バーンスタインElmer Bernsteinですが、アレンジとプロデュースがドン・コスタです。
この後、アル・カイオラ楽団は、ボナンザBonanza、ガン・スモークGunsmoke等、トワンギー・ギター・サウンドの主題歌を連発します。
ドン・コスタ・プロデューサー、さすがに機を見るに敏、プロデューサーは、こうでなくてはなりません。さて、ギジェットのサンドラ・ディー。ギジェット公開から約半年後に、この映画に出演します。
Theme From A Summer Place / Percy Faith
サマー・プレイス、避暑地の出来事、映画も大ヒット、主題歌のパーシー・フェイスもナンバー・ワンを獲得しました。なお、ここでサンドラ・ディーの人気は確定的なものになったんですね。そして、ボビー・ダーリンBobby Darinが黙っていられなくなって、熱烈なる求婚をして、めでたく結婚となりました。
可哀そうなのは、コニー・フランシス。
さて、ギジェットで幕を開けたビーチ・ムービーは、63年に女王の座は、サンドラ・ディーからアネットへ移ります。そのアネットのシングル・デビューは59年でした。
Tall Paul / Annette
59年7位のヒット曲、トール・ポール。ディズニーの人気テレビ番組、ミッキー・マウス・クラブで人気が出たので、アネットの歌手デビューとなりました。
ただ、これはアネット用の曲ではないんですね。以前にミッキー・マウス・クラブの先輩が歌っていたもんですけど、そのカバーでしたが、アネットに合っていたということなんでしょう。で、ミッキーマウス・クラブは子供向けでしたが、この頃、大人に人気があった番組に、サンセット・セブンティー・セブン77 Sunset Stripがありました。
Sunset 77 / Mixed Chorus
このドラマで一気に人気が沸騰したのがエド・バーンズ。いつも、こう、櫛で髪を梳いているというアクションが人気で、彼の歌も大ヒットしました。
Kookie Kookie/Ed Byrnes
59年、4位となった、クーキー・クーキー櫛貸して、でしたね。ドラマのシチュエーションをそのまま歌にしたもんで、今でいえばラップということですかね。女性の声はコニー・スティーブンスです。
彼女もテレビ・ドラマ、ハワイアン・アイHawaiian Eyeで人気が出たので、ワーナー・ブラザースは、彼女用の歌を探します。
ビル・アンド・ドリー・ポストBill Post and Doree Postというデュオが作った曲が、スィックスティーン・リーズンズ。
16 Reasons/ Connie Stevens
コニー・スティーブンスを想定して書いた曲とのことで、コニー・スティーブンスにはぴったりでした。
60年ポップ3位、R&Bでも10位にランクされた、コニー・スティーブンス、シックスティーン・リーズンズでした。映画、アメリカン・グラフィティ―American Graffitiで、路上を歩いている女の子に、コニー・スティーブンスにそっくりだね、と声をかけると、喜んで車に近づいてきて、「そうお?うれしい。でも自分ではサンドラ・ディーに似てると思ってるんだけど」というシーンがありましたね。
サンドラ・ディーもコニー・スティーブンスも、女性アイドルの一番人気だったんですね。
この、シックシティーン・リーズンズ、ストリングスの華麗なアレンジは、ドン・ラルクDon Ralke And His Orchestra。
そのドン・ラルクがストリングス・アレンジを施して大ヒットとなったのが、ジョニー・ソマーズの、この曲でした。
One Boy / Joannie Sommers
ジョニー・ソマーズも、コニー・スティーブンスと同じワーナー・ブラザース・レコードからのデビューでした。まさに、ハリウッド調のポップ・ソングでしたが、この後、テレビ、映画、歌から続々と女性アイドルが登場してきて、60年代ポップスと呼ばれる一つの時代が作られたのでした。
渋谷区神南NHKスタジオからお送りいたしましたアメリカン・ポップス伝パート4、最終日の本日はウエスト・コーストの50年代ポップス事情をお送りいたしました。ウエスト・コーストのポップス・クリエーターたちの顔ぶれも、大体50年代末に揃っていたということがお分かりいただけたと思います。
パート5では、いよいよ本格的に60年代ポップスへと突入します。それでは、また、次回をお楽しみに。大瀧詠一でした。
<この放送の約4か月後、2013年12月30日、逝去>