大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝 パート4 第3夜
2013年8月15日放送
(放送内容)
大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝 パート4 第3夜は、ポップフィールドにおけるフォーク・ソングの歴史です。
ここまで、パート1からパート4、昨晩の2回目まで全部で、17回のプログラムを放送して参りましたが、一曲もフォーク・ソングがかかっておりませんでした。フォーク・ソングはポップスじゃないのか。なぜここまでフォークは1曲も無かったのか?その謎を今回解いていきたいと思います。まずは、この曲から。
Tom Dooley / The Klngston Trio
キングストン・トリオの、このトム・ドゥーリ―が、1位になったのは1958年の11月です。尤も、この曲自体はアルバムに収録されていた曲で、最初からシングル・カットはされていませんでした。アルバムは58年6月に発売されていて、キングストン・トリオはアルバム・デビューだったんですね。
で、ローカル局のDJがアルバムに収められている、このトム・ドゥーリ―が気に入って、何度も何度もかけているうちに、リクエストが集まってきて、それから会社がシングルカットしたと、そしたら1位になったと、そういう珍しいパターンでした。エルビスのような人気シンガーの場合なら、アルバムからシングル・カットして1位になるというのは、全然珍しくなかったんですけど、デビューしたての新人が、最近は、アルバムデビューっていうのは当たり前になりましたが、1958年にアルバムからデビューするっていうのは、考えられない時代だったんですね。まだ、SP盤も発売されていた時期ですから。
シングル・ヒットが何曲か出た後にアルバムも発売するというのが通常のパターンだったわけです。その既成概念を破ったのがキングストン・トリオで、60年代中盤以降のアルバム時代の先駆けともなりました。曲そのものはキングストンのオリジナルではなくて、古くから歌われていたフォークソングで、キングストンはフランク・ワーナーのバージョンを元にしていると言われております。
Tom Dooley / Frank Warmer
また、フランク・ワーナーの前には、フランク・プロフィットという人が歌っていました。
Tom Dooley / Frank Proffitt
更にそれ以前は、グレイソン・アンド・フイッターというコンビが録音しています。
Tom Dooley / Grayson & whitter
最初にだれが作ったのかというのは定かではありませんが、1866年に実際に起きた事件を基にして作られた歌で、はずみで恋人を刺してしまった男が縛り首になるという内容です。こういう内容の歌が1位になるんですから、これが、ポップスの面白いところでもありますね。商業音楽がポップスなんですけど、その中で、こういうことが時々起きるんですね。で、今回、アメリカンポップス伝を放送するに当たって、ナンバー・ワン・ソングを調べていて、気づいたことがありました。それは、トム・ドゥーリ―の前に、フォーク・ソングの1位の曲が無いという事実です。で、これには驚きました。今回は、メイン・テーマがロックンロールの歴史ということで、エルビスが登場した1956年を中心にした構成としました。そこで56年の前の5年前、51年からの1位をメドレーにして、聞いていただきました。その中に、フォークの曲が、1位の曲が1曲もなかったんですね。それにしても、51年から58年の間に、1曲もないっていうのは不思議ですよね。で、調べてみますと、なんと、1950年に1曲あったんですね。今回は51年から始めてしまったので、キングストン・トリオが登場するまで、ありませんでした。その50年の1位の楽曲は、ウィーバーズのグッド・ナイト・アイリーン。
Goodnight Irene / The Weavers
これが、50年の8月から13週も1位を続けたという、超ド級の大ヒットでした。同時期にシナトラが5位、ジョー・スタッフォードが9位、レッド・フォーリーとアーネスト・タブErnest Tubbが10位にランクされるという一大現象だったんですね。
この曲もフォーク・ソング特有のオリジナルが分からないというものですが、原点とされているのが、レッドベリーのバージョンです。
Goodnight Irene / Leadbelly
この録音は、アメリカの国立議会図書館に所蔵されてるものです。
日本で言いますと、国会図書館ですね。その、アメリカの議会図書館では、フォーク・ソングのアーカイブを作っていました。1934年、その民謡資料室にコンサルタントとして就任したのが、ジョン・ロマックスJohn Lomax。
彼はフィールド・レコーディングという画期的な方法を持ち込んだんですね。
それは車に録音機を積んで、各地を歩くというもので、キャデラック・マンCadillac Recordsという映画がありました。チェス・レコードの創設者を主人公にした映画The Birth of Chess Recordsですが、その中で、マディー・オータスのところへ、「君の歌を録音させてくれ」とジョン・ロマックスが登場するシーンがありました。で、車のトランクを開けると録音機があって、当時は円盤録音なんですね。レコードに直接録音するという方式で、それで、マディー・オータスがスライド・ギターを弾きながら、歌っていました。ジョン・ロマックスの息子、アランAlan Lomaxも手伝うようになって、全米をかなり広範囲にわたって歩いて、時には牢獄の中にまで、録音機を持ち込んで収集を行いました。あの、日本でも1940年に、町田華宵さんとNHKが民謡調査というのを行って、日本全国を回って民謡を収集して、現在もNHKのラブラリーとして残されています。このロマックス親子の努力で、充実したフォークソング・アーカイブができたんですね。で、図書館に行けば、だれでもいつでも、閲覧したり聞いたりすることができました。また、レコードや本でも出版されて、外国の人も研究ができたという、フォーク・ムーブメントの基本となったのが、ここのアーカイブでした。たくさんのミュージシャンや作曲家が、アーカイブに有る曲をヒントにして、いろんな曲を作っています。商業ポップスの殿堂、ブリル・ビルディングのライター達もネタ探しに使っていますね。
ではレッドベリーの録音から、後にカバーされたり、ヒントにされた曲を聞いてみましょう。
Take This Hammer/ Leadbelly
Cotton Fieids/ Leadbelly
Matchbox Blues / Leadbelly
やあー、これは、カール・パーキンスのマッチボックスですよね。
で、テイク・ディス・ハンマーは天使のハンマーの原点、コットン・ソングはコットン・フィールズとして有名になりました。
で、50年に大ブームとなったウィーバーズですが、メンバーは、リー・ヘイズLee Haysとピート・シーガ―Pete Seegerらの4人の編成で、ピート・シーガ―が住んでいたグリニッジ・ビレッジのアパートで48年に結成されました。
しかし、リー・ヘイズとピート・シーガ―は、その前の40年から、アルマナック・シンガーズというグループに属していました。
で、メンバーはたくさんのミュージシャンが入れ替わり、立ち代わりというグループだったんですけどもね、その中には、ウディ・ガスリーもおりました。
House Of The Rising Sun/ The Almnac Singers
時代は太平洋戦争の真っただ中で、彼らの主張は反戦、反レイシズム、ユニオン結成と、これがまあ、主なもので、ウディ・ガスリーの映画、「わが心のふるさと」を見ますと、この時代の雰囲気が良く分かりますよね。
で、このグループの中心人物であったところのリー・ヘイズとピート・シーガ―が戦後に結成したのが、ウィーバーズであったわけです。グッド・ナイト・アイリーンは200万枚の大ヒットで、続く第2弾シングルは11位でしたが、B面はこの曲でした。
Sloop John B /The Weavers
この後、第3弾シングルは1か月後に出されて4位、更に2か月後の第4弾は2位と、とにかく物凄い人気だったんですね。で、第5弾シングルは、キセーズ・スィーター・ザン・ワインでした。
Kisses Sweeter Than Wine/The Weavers
これは19位でしたが、B面の聖者の行進も27位と、両面ヒットとなりました。この曲は、レッドベリーが歌ってた曲をピート・シーガ―が改編したもんなんですね。では、レッド・ベリーのバージョンを聞いてみましょう。イフ・イット・ワズント・フォー・ディッキー
If It Wasn’t For Dicky/Leadbelly
レッドベリーは12元ギターの名手でもありました。でー、レッドベリーは、グリニッジ・ビレッジで、アイリッシュの歌手がこの歌を歌ったのを聞いて、自分で改編したそうです。まあ、このように、フォーク・ソングっていうのは自由に自己流解釈ができるっていうのが、最大の面白みで、だれが作ったのかというよりも、どのように解釈したのか、どのようにアレンジしたのかというのが聴きどころのわけですねえ。で、翌52年になっても、ウィーバーズの勢いは止まりませんでした。1位はありませんでしたが、ヒット曲が続きました。
Wimoweh (The Lion Sleeps Tonight)/ The Weavers
これは14位でしたけれども、後に世界的に大ヒットとなりました。続いては、またまたレッドベリーのレパートリーから、ミッドナイト・スペシャル。
Midnight Special /The Weavers
これは30位でしたが、ここでぱったりとレコード発売が止まります。人気が落ちたからではないんですね。例の、マッカーシズムです。
戦後の冷戦構造から、アメリカでは赤狩り運動が本格化しました。まずは、ハリウッドの脚本家や監督が標的にされまして、いわゆるハリウッド・テンと呼ばれた人々が実刑判決を受けたんですね。
それが1950年。まさに、ウィーバーズの曲が1位になった年です。また、6月には朝鮮戦争が勃発しました。しかし、ウィーバーズの人気がものすごく、ヒット曲を連発するので、当局にとっては目障りになって来たんですね。そして追及は映画界から音楽界へと波及して、このウィーバーズがやり玉に挙げられたんです。で、メンバーのリー・ヘイズとピート・シーガ―は、公聴会に呼ばれます。
特にリー・ヘイズは何度も呼ばれて、しかもその模様はテレビで全米中継されました。この辺りは、ウディ・アレンのザ・フロントとか、ロバート・デニーロが出た「真実の瞬間」などを見ると分かります。
そして、ウィーバーズはFBIから、ラジオとテレビの出演の禁止を言い渡されたんです。FBI長官はジョン・エドガー・フーバー、イースト・ウッドが「ジェイ・エドガー」で映画化しましたが、在籍48年、大統領が8人も変わる間、権力の座に居続けた、あのフーバーです。
で、ピート・シーガ―はこの期間、常にFBIの監視状態に置かれて、「逮捕はされなかったが、毎日、牢獄にいるみたいな気分だった」と発言しています。で、チャップリンも52年に、国外追放命令を受けました。
また、フォーク・ソングのアーカイブを行った、アラン・ドマックスもこの時期、おじいさんの母国である英国に逃れています。でウィーバーズのレコードを販売していたデッカ・レコードは53年、彼らとの契約を破棄するだけでなく、彼らの楽曲をデッカのカタログから、全曲削除したんですね。それだけ、マッカーシーとフーバーの巻き起こした赤狩り旋風は、物凄いもんだったんです。ですから、ヒットしそうな曲がたくさんあったにも関わらず、どのレコード会社もカバーするのは二の足を踏んだというわけで、1958年のトム・ドゥーリーガ1位になるまで、グッド・ナイト・アイリーンから8年間、フォーク・ソングのナンバー・ワンがなかったというのは、こういう背景がありました。ま、しかし、議員の中にも、マッカーシーはやり過ぎではないかという声が上がるようになって、で、マッカーシズムに立ち向かうテレビのキャスターも登場してきたんですね。そのキャスターとはエドワード・マロー。
これを映画化したのが、ジョージ・クルーニーのグッド・ナイト・アンド・グッド・ラックです。
で、これを見ますと、マローの奮闘ぶりと、当時のマッカーシズムがどのようなものであったのかが分かります。で、徐々に、反マッカーシーの流れが起きてきて54年12月、上院で、マッカーシーに対するけん責決議が賛成多数となって、ついにマッカーシー本人はここで失脚しました。その1年後の55年12月、ウィーバーズはかねてカーネギー・ホールで、再結成コンサートを開いたのでした。
Darling Corey (live) /The Weavers
デビュー当時の曲は、デッカ・スタジオで華麗なストリングスとかホーンのアレンジが施されていましたが、ライブでは4人の素朴な演奏で、このスタジオ録音よりライブ版がウィーバーズの本来の姿だったんですね。
Wimoweh (live) / The Weavers
えー、拍手の具合から、この曲の浸透具合が分かりますが、いかに当局が禁止しても、その間、ファンはレコードを聞いていたわけですね。そしてコンサートの最後の締めの曲は、このグッド・ナイト・アイリーンでした。
Goodnight Irene(live) / The Weavers
んー、感動的なコンサートだったということが分かりますね。曲も最後なので、ギターのチューニングも怪しくなってきましたが、いかに聴衆は彼らの再結成を待ち望んでいたのかというのが、この拍手で分かりますね。この再結成コンサートでは、たくさんの持ち歌が披露されましたが、その中の1曲、ロック・アイランド・ラインを聞いてみましょう。
Rock Island Line/ The Weavers
シカゴの鉄道のことを歌った歌ですけど、これを最初に録音したのは、ジョン・ロマックス、歌ったのは、レッドベリー。
Rock Island Line/ Leadbelly
レッドベリーのバージョンは冒頭に語りがあるんですけどね。ウィーバーズは、そこをカットしたバージョンでした。ところが、この語りを、レッドベリーのバージョンの語りありのバージョンでカバーしたレコードが出たんですね。それがなんと、1956年、まさにハートブレーク・ホテルが1位にランクされていたころに、トップ・テンに飛び込んでくるという珍事が起きておりました。
Rock Island Line / Lonnie Donegan
歌っていたのは英国人のロニー・ドネガン。録音されたのは54年の7月でした。当時はイギリスでは、ロニー・ドネガンやクリス・バーバーChris Barberが中心となって、スキッフルと呼ばれた音楽がイギリスではブームになっていたんですけど、それにしてもアメリカで全く無名の、しかも英国シンガーのレコードが突然トップ・テンに入ってくるというのはかなり異常な出来事でした。
で、考えられるのは、この曲はウィーバーズのレコードしてはかなり有名だったということ、そして、エルビスが登場して、世はロックンロール時代になっていたということ、ロニー・ドネガンのスキッフルはどこか、エルビスのサン・レコード時代と共通するものがあります。
で、エルビスのファースト・アルバムはこの頃ゴールド・ディスクを獲得していました。この中には、サン・レコードの曲が5曲も入っていたんですね。ですから、リスナーは、あのタイプのサウンドも既に馴染みがあったわけです。同じようなものとして捉えられたんじゃないでしょうか。で、ドネガンのバージョンはウィーバーズにはないハードなビート感もありました。これが、この時代に受け入れられた要素だったと思います。で、イギリスでこのレコードが大ヒットしたことを知ったデッカ・レコードは、カタログから削除してしまったウィーバーズのレコードをいまさら発売するわけにはいきません。そこで新人にこの曲を歌わせることを企画します。歌わされたのは、契約したばかりの新人、ボビー・ダーリン。
Rock Island Line / Bobby Darin
ボビー・ダーリンは、実はこれがデビュー曲だったんですね。この歌でテレビの初出演を果たしたボビー・ダーリンの映像を見たことがありますが、かなり、この、手をかざして頻繁に見るんですね。で、何のことかと思ったら、手のひらにびっしりと歌詞が書いてあるんですよ。で、会社に無理やりやらされたということの証明ですね。もちろん、まったくヒットはしませんでした。
16 Tons / Tennessee Ernie Ford
えー、この曲は純粋なフォーク・ソングではありませんが、ウィーバーズが音楽シーンに復帰した55年、12月にトップ・テン入りして、8週連続のナンバー・ワン・ソングとなりました。炭鉱労働の歌で、いかにも古くからのフォーク・ソングのように聞こえますけども、カントリー・シンガー、マーク・トラビスMark Travisが46年に作った歌です。この頃、フォークのアルバムがヒットしていたので、キャピトル・レコードも何かフォーク的な歌を作ってみないかと、マール・トラビスにアドバイスしました。実際、このトラビスのお父さんは、ケンタッキーの炭鉱で働いていて、それを基にしてこの歌が作られました。
16Tons/ Merle Travis
47年に、フォーク・ソング・オブ・ザ・ヒルズというアルバムを作って、その中に入っていたんですね。
ところがですね、この時に、47年、放送局にこのアルバムをかけないようにと、FBIが圧力をかけたんですね。アルバムの曲ですから、ラジオ局でかけなければ、リスナーは知る由もありませんね。そこで、埋もれた曲という風になっていたわけです。時は流れて55年、同じキャピトル・レコードのディレクター、ケン・ネルソン、ビーバッパ・ルーラの時に出てきましたが、彼がこの曲を思い出して、テネシー・アーニー・フォードにカバーしたらどうかと、という風に持ち掛けたんですね。
55年といいますと、マッカーシー議員も失脚していますし、まあ、「そろそろいいんじゃないかな」という風に思ったんでしょうね。ただ、やはり、怖かったのか、B面で出したんですね。しかし、まあDJが、B面ばかりかけたので、クリスマスまでに200慢枚を売り上げるという特大ヒットとなったのでした。55年に再結成したウィーバーズ、再結成コンサートでも、この曲を歌っておりました。
16 Tons / The Weavers
新作でも古典になったという例ですね。シックスティーン・トンズ。さて、労働歌といいますと、明けて、57年。1月に初登場して2月には5位と大ヒットした労働歌が、ポップ・チャートに登場しました。
Day-O(The Banana Boat Song) / Harrγ Belafonte
まあ、この頃、「今月ア、足りない、借りねばならぬ」という風にはやったんですけどね。みんな「デーオ」という風に覚えていますが、タイトルはバナナ・ボート。これを歌ったのは、ハリー・べラフォンテ。デビューは古くて、49年にレコードを出しています。その後、図書館でロマックス親子の勉強をして、フォーク・ソングに興味を持ったんですね。で、ビレッジ・バンガードで歌うようになって、そこにレコード会社のディレクターが見に来て、契約を結んで、54年に、アメリカ文学の父といわれる、マーク・トゥエインをテーマに据えた、ファースト・アルバムを作りました。
で、出した時には、すぐには売れませんでしたが、2年後の56年、これまた1956年なんですね。突然、チャートの3位を記録したんです。シングル・ヒット全く無くて、アルバムが3位というのは、これはおそらくポップ史上、初めてだったと思いますね。で、1か月後に発売された2枚目のアルバムは、1位です。100万枚以上売り上げました。3枚目のアルバムも、また1位。で、56年には2枚のゴールド・ディスク・アルバムを獲得したんですから、物凄いブームでした。この年はエルビスもゴールド・ディスクを2枚でしたから、アルバム・チャートでは、エルビスとハリー・べラフォンテは、互角の戦いをしていたわけです。翌、57年の4枚目は、2位でしたが、ゴールド・ディスクを獲得して、とにかく、この頃はべラフォンテ・ブーム、カリプソ・ブーム、以前のマンボーのように、カリプソ―という言葉は流行語になって、いろんなところで使われました。
Day Dan Light / Edric Conner
カリプソ―として流行しましたが、実際はメントといわれる音楽形式で、ベラフォンテのバージョンは今かかっていましたところのエドリック・コナーの下に、さらに次のルイ・べニットのバージョンを加味したものだと言われております。
Louise Bennett – Day Dah Light
デイ・ダン・ライトでした。実はべラフォンテのバナナ・ボートがチャート・インする2週間前に、ザ・タリアーズがバナナ・ボート・ソングというタイトルでレコードを出しておりました。
The Banana Boat Song / The Tarriers
このタリアーズのリーダーは、エリック・ダーリン、ウィーバーズに影響を受けて56年に、タリアーズを結成しました。彼らのバナナ・ボート・ソングの方が、ベラフォントの、デーオよりも一つ上の4位にチャートされました。タリアーズのリーダーのエリック・ダーリン、彼はピート・シーガ―がウィーバーズを抜けた時に、ウィーバーズのメンバーになりました。そのあと作ったグループが、ルーフ・トップ・シンガーズでした。
Marianne / The Rooftop Singers
このカリプソブームやフォーク復活の動きは徐々に他の会社も参加してくるんですね。まずはCBSのミッチ・ミラー。今かかってるマリアンヌを歌ってるのはイージー・ライダースです。この曲はカリプソ作家として有名なローリング・ライオン、ほえるライオンですかね。この曲を基にしています。
Marianne / The Easy Riders
イージー・ライダースThe Easy Ridersのリーダー、テリー・ギルティ―ソンTerry Gilkysonは、作家として活動する傍ら、50年代初期にはウィーバーズに呼ばれて、ゲスト・シンガーとして時々歌っていました。もともとフォークに縁があったわけですね。そして56年にイージー・ライダースを結成して、この、オール・デイ・オール・ナイト・マリアンは4位の大ヒットとなりました。では、もう1曲イージー・ライダースの曲を聞いてみましょう。
Greensleeves / The Easy Riders
この曲は後に、同じCBSのフォーク・グループ、ブラザース・フォアがカバーして大ヒットさせましたが、オリジナルはこのイージー・ライダースでした。
で、ここまではフォーク関連のアーティストでしたが、いよいよポップ側からのアプローチも始まります。57年に、ハニーコームというナンバー・ワン・ヒットがありました。
Honeycomb / Jimmy Rogers
これを歌っていたのは、ジミー・ロジャース。彼はもともと、フォーク・シンガーになりたかったという人で、第2弾シングルに選ばれたのは、ウィーバーズのレパートリーだった、キスィズ・スイーター・ザン・ワイン。
Kisses Sweeter Than Wine / Jimmy Rogers
という風に段々上がって行く構成なので、なかなかかッとしずらい曲なのですが、で、邦題は「ワインより甘いキッス」という、これが、第3位のヒットとなりました。レコード会社は、ギャンブラーのジョージ・ゴードナーGeorge Goldnerと大親分のモーリス・レビーMorris Levyが作ったルーレット・レコードRoulette Recordsです。
この会社がフォーク・ソングというジャンルに本格的に手を出してきたわけですから、ブームもそろそろ本格的になってきたということですね。プロデューサーは、フューブ・アンド・ルイジーという、この二人はフォーク・ソングというジャンルがヒット曲の宝の山であるとしっかりと見抜いていたチームでありました。フューブ・アンド・ルイジーは、この後フォークだけでなく、60年代ポップスを作った重要なチームという風になるんですけども、その話はまた、次の機会ということで。ジミー・ロジャースはこの後もトップ・テン・ヒットを連発するビッグ・スターとなったんですが、アルバムの中からの曲を聞いてみましょう。
Evergreen Tree / Jimmy Rogers
日本ではクリフ・リチャードのヒットでお馴染みですが、オリジナルはジミー・ロジャースでした。作家は、アーロン・シュローダーAaron Schroederと、ウォーリー・ゴールドWally Goldの名コンビで、ポップスの作曲家たちもフォーク調の需要が高まってきたということでしょう。
しかし、ジミー・ロジャースは、自らをフォーク・シンガーと名乗って、ジミー・ロジャース・シングス・フォーク・ソングJimmie Rodgers Sings Folk Songsとか、アン・イブニング・オブ・フォーク・ソングAn Evening of Folk Songsとか、しっかりと、フォーク・ソングという文字を入れたアルバムを発表していきました。アルバムの中には、フォーク・グループのカンバ―・ランド・スリーという、そこのメンバーの曲もありました。
Find The Girl/ Jimmy Rogers
ファインド・ザ・ガールという曲ですが、作曲はジョン・スチュアートJohn Coburn Stewartです。1961年、キングストン・トリオのリーダー格のデーブ・ガラッドが脱退しまして、新メンバーとして加入したのが、このジョン・スチュアートでした。
Where Have All The Flowers Gone? / The Kingston Trio
ようやく出だしのキングストン・トリオの話に戻って参りました。やかんだね、こりゃ。ジョン・スチュアートが加入した第2次キングストン・トリオが、この61年に吹き込んだのが、花はどこに行ったでした。で、ヒットしたのは、それから3年後のことだったんですが、キングストン・トリオや、それ以降のフォーク・シーンについては、また次の機会にお話しすることといたします。
ウィーバーズのナンバー・ワンと、キングストン・トリオのナンバー・ワンとの間には、7、8年の間がありますが、一見無関係のように見えますが50年のグリニッジ・ビレッジと、58年のサン・フランシスコには大きな共通性がありました。それは、フォーク・パート2でお話ししたいと思います。それでは、また明晩。